$私はアスペルガー症候群でしーた♪(改装中♪)


最近、子育てで「ほめて育てる」ということが、盛んに強調されるようになりました。これは、とてもいいことだと思います。
特に発達障害のネイティブ(当事者)にとっては、自己肯定感を育てるために、「ほめられる」体験が必要です。

ただ、「ほめて育てる」の「功」の部分ばかりが強調されて、なんでもかんでも「ほめればいい」的に考えてる人がいるようです。

けれど、大切なのは、その「ほめ方」なんですね。
「ほめ方」がマズイと、まったく逆効果になってしまうのですから!

みなさんお家ののあすぺちゃんやあすぺさん。
ほめてるのに、喜ぶどころか、逆にへそを曲げてしまうなんてこと、ありませんか?

私も子供の頃、よくそういうことがありました。

今回は、そんな私の子供の頃の気持ちを振り返りながら、「ほめる」ということの功罪、特にマズイほめ方による「罪」について考えていきます。

------

私は小学校の頃、とにかく体育が苦手でした。特に、号令に合わせて動く、リズムに乗って踊るということが、とびぬけてヘタクソでした…。

それで、いつも、みんなの見ている前で、先生に特訓されるんですね。
まだ、放課後に残されるほうが、みっともない姿を見られないだけマシですよ。
はじめは丁寧に教えていた先生も、あまりにも「言った通りに動かない(動けないんだよ!)」私に、みるみる表情は険しくなり、語気が荒くなり、イライラとしはじめる。
そんな状態をクラスみんなが見ている。

まさに、いじめのネタにしろと言っているようなもんですね。

ところが、何よりも、私が嫌だったのが…

こうやって、一人特訓されて、なんとか(まぐれ?)でできたときに、先生やみんなが、心にもないくせに「がんばったね」「すごい!できたね」と拍手したりすること。

ふつうの子は、何の特訓もなくサラッとできてしまうレベルの事。
それをこんな風に特訓されなければできない自分が、どれだけレベルが低いのか、身に染みて自覚しているわけです。

こんな簡単なこと。フツウの子なら簡単にやってしまうこと…。
そんな簡単なことができたからと言って、大げさに褒められたり喜ばれるのは、
みんなが私のことを「普通の事ができないレベルの低い子」として見ている証拠だ…

そんな風に感じたのです。

本来は、できて当たり前のことができただけ。
フツウの子なら、できたからといって、ほめられるようなことではない。
それを、ことさらに大げさに褒める周囲の反応は…

「自分ができない子」であるひしひしと感じさせられるだけでなく、
周りの子や先生が「私をフツウの子たちより一段低い位置においてみている」という現実に気づかされるのです。

それは、ただでさえみんなの前で恥をかいて辛いのに、
そんな現実を突きつけられて、私のプライドはズタズタになったのです。

特に、いい子ぶった子は、ことさらに近寄ってきて「よかったねぇぇ」と「私って、できない子ががんばったことを、よろこべるよくできた子なのよ!」という自己満足浸った表情で言われるは、本当に嫌でした。

もちろん、本当に心から出たほめ言葉は、はっきりと区別がつきます。

小さなころから、弱い子にだけ裏の顔を見せる子の餌食にされたり、意図せず人の表裏を見せられてきただけに、その人が本気で言っているかどうかを、敏感に感じ取ることができるのです。(今もそうです。)

もしも、みなさんの身近のあすぺちゃんやあすぺさんが、ほめても喜ばなかったり、不機嫌になったとしたら、ご自身の心を一度チェックしてみてください。

「私は、このあすぺちゃん・あすぺんさんを、自分より一段レベルの低い人間だと思っていないだろうか?」
「”こんなことはできないに違いない”と決めつけて見ていないだろうか?」と。

実は、あすぺちゃんやあすぺさんには、そんなあなたの心が丸見えなのですから…。

次回の『「ほめる」の功罪(2)』では、私が嫌だったもう一つのほめ方についてお話します。

↓ぺん太と一緒に、ポチ!とツッコミ入れてね!
ブログ村 発達障害