(小松「農業= 『化学的物質代謝制御』論と『合理的農業』論」よりー結びー)
(3)「合理的農業」
《生産者にとっての費用価格の要素としての土地価格と生産物にとっての生産価格の非要素としての土地価格〔……〕とのあいだの衝突は,一般に,土地の私的所有と合理的な農業――土地の正常で社会的な利用との矛盾が示される諸形態のうちの一つにすぎない。しかし他方では,土地の私的所有,それゆえ直接的生産者たちからの土地の収奪は,資本主義的生産様式の基礎である。》
《この場合, 土地の私的所有の形態であり結果である土地価格は, 生産そのものの制限として登場する。大農業,および,資本主義的経営様式にもとつく大土地所有においても,所有はやはり制限として登場する。なぜなら,それは,借地農場経営者の生産的資本の投下――究極的には借地農場経営者の利益にならずに,土地所有者の利益になる生産的資本の投下――を制限するからである。どちらの形態においても,土地――共同的・永遠的所有としての,交替する人間諸世代の連鎖の譲ることのできない生存条件および再生産条件としての土地――の自覚的・合理的な取扱いの代わりに,地力の搾取と浪費が現われる(この搾取が,社会的発展の到達水準に依存しないで,個々の生産者たちの偶然的で不均等な事情に依存するということは別として)。小所有においては,このことは,労働の社会的生産力を使用するための諸手段と科学とが欠けていることから起こる。大所有においては,借地農場経営者たちと所有者たちとのできるだけ急速な致富のためにこれらの手段が利用されることによって〔それが起こる〕。どちらの場合にも,市場価格への依存によって〔それが起こる〕。》
《小土地所有に対する批判はすべて,究極的には,農業にとっての制限であり障害である私的所有に対する批判に帰着する。また大土地所有に対する反論的批判もすべてそうである。ここではもちろん,どちらの場合にも, 副次的な政治的考慮は度外視される。土地の私的所有のすべてが農業生産に対して,また土地そのものの合理的な取扱い・維持・および改良に対して対置するこの制限,この障害は,大土地所有と小土地所有とでは形態を異にして発展するにすぎないのであり,害悪のこれらの独特な形態についての論争では,その終局的原因が忘れられる。
小土地所有が前提するのは,人口のはるかに圧倒的な多数が農村人口であり, 社会的労働ではなく孤立した労働が優勢であること,それゆえ富も再生産の発展も,再生産の物質的ならびに精神的諸条件の発展も,それゆえ合理的な耕作の諸条件も,こうした事情のもとでは排除されているということである。他方では,大土地所有は農業人口をますます減少していく最低限度にまで縮小させ,これに,諸大都市に密集するますます増大する工業人口を対置する。こうして大土地所有は,土地の自然諸法則によって命ぜられた社会的物質代謝および自然的物質代謝の連関のうちに取り返しのつかない亀裂を生じさせる諸条件を生み出すのであり,その結果, 地力が浪費され,この浪費は商業を通して自国の国境を越えて遠くまで広められるのである(リービヒ)》