草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

「士は武士なり。君下に武士を立てて衆人直耕の穀産を貪り、若し之れを抗む者あれば武士の大勢を以て之を捕縛す。是れ自然の天下を盗むが故に、他の己れを責めんことを恐れてなり」(安藤昌益)

 



「侍をして国中にあらしむべからず」(播磨土一揆)




「君民の共に重んずる所は社稷である。社稷を重ぜざる民は民ではない。社稷を重ぜざる君は君ではない。」

「君を主とするから、暴君政治の弊が起る。民を主とするから、賤民政治の弊が起る。」

「憲法即ちコンスチチューシヨンといふ語は、本質といふ意味である。國の本質は、社稷の外にはない」 (権藤成卿『自治民範』平凡社、一九二七年、二七八~二七九頁)。

 



 脱希少性経済の実現は容易ではないというご指摘は正しいと思います。しかし、小塩論文(「ソーシャル・エコロジーとムレイ・ブクチン」)で扱われている「脱希少社会」といわゆる「脱希少性経済」は、実は非常に大きな違いのある概念です。

 

 後者は、労働の生産力の発展と欲望の過剰な煽り立ての抑制とによって「欠乏」(欲求の不充足)を克服した経済が実現可能であるという考え方で、こうした考え方の持ち主は、歴史上そう珍しくはありません。マルクスもいくつかの条件が満たされるなら、そうしたことが実現する可能性はあると考えていました。

 

 これに対してイヴァン・イリイチが嚆矢とされる「脱希少社会」論は、むしろ逆とも言っていい考え方です。それは次のような考えです。「商品集中社会」=「産業化社会」(マルクスが資本主義社会と呼んだものをイリイチはこう呼びます)では、自然が資源として消費されて商品となることによって自然が絶対的に希少なものになる一方で、商品も、実際には大量に生産されているにも拘らず、欲望の煽り立てを通じて相対的に希少化する(際限なく膨張する欲望――これに購買力の裏付けがあるなら需要となる――に対して「不足」する)というのです。

 言い換えれば、産業化社会の経済的成長のために、常に満たされない過剰な欲望が創出され、それによって商品の相対的な不足(希少化)が常に再生産され、経済の規模がどんどん拡大し、その結果、自然は、資源としても廃棄物の「最終処分場」としても絶対的に枯渇・不足していくことになるということです。 

この状態から抜け出すことが「脱希少社会」への移行というわけです。脱出の方法は、〈自然を商品[i]に転化させないこと[ii]〉と〈欲望の膨張の抑制〉です。勿論、この点に関しては、希少性経済と同様、資本の利益に相反するため、簡単には実現できないでしょう。

 

 「脱希少性経済」も欲望の膨張の抑制が必要であることを認めていますが、他方で、生産力の向上とそれを増産のために利用することを不可避とみなす傾向が強いといえます(マルクスのような例外もある)。

 

 イリイチらの脱希少社会論、マルクスの脱希少性経済論、マルクス以外の脱希少性経済論を表の形で対照してみましょう。

 

 

生産力引き上げの必要性 

 生産力引き上げの目的 

 増産の必要性  

イリイチらの脱希少社会論 

 不要[iii]          

 なし     

 不要    

マルクスの脱希少性経済論 

 要          

 自由時間拡大 

 ほとんど不要

その他の脱希少性経済論  

 要          

 増産      

 まだまだ必要

現在の社会

 要

 増産

 増産し続けることが至上目的

 

 


[i] 商品:それを販売して利益を得るために生産される物

[ii] 企業の生産する商品に頼らなくても欲望を充足できる様々な方法を編み出す必要がある。例えば、自由時間に本当に必要な量だけ自家栽培の野菜や果物を生産するなど。

[iii] 生産力の引き上げよりも、「各自の必要性を自立的に選択し、自分を満足させる方法を獲得する自由を可能にする技術」(現代的なテクノロジーというよりも制度やスキルの意味合いが強い)の向上が重要であるとする。

 

  

莽崛起(The Rising Multitude)     


 

2012/8/9(木) 午後 4:32のエントリー〕
 
産業的生産様式とその道具(=「既成制度」)について、イリイチはいう。
 
 
《工場、報道メディア、病院、行政府や学校は、われわれの世界観を封じこめるようにパッケージされた財、サービスを生産する。われわれ──豊かなものたち──は進歩とはこれらの既成制度(エスタブリッシュメント)の拡大だという風に考える。われわれは、移動性の向上といえば、ゼネラル・モーターズ社とボーイング社によってパッケージされた豪奢と安全性のことだと考える。また一般の福祉改善といえば、医師や病院の供給をふやし、健康と苦しみの引き伸ばしを一緒にパッケージすることだと考える。われわれはもっと学習を進める必要と、さらに長時間の教室内監禁への要望を同一視するに至った。》(『オルターナティヴズ』P.211。)
 
《産業化された各社会はこれらのパッケージを、個人消費用として市民の大部分に提供できるが、そのことは決してこれらの社会が健全であり経済的であり、あるいは人生の質を高めてくれることを証明するものではない。むしろその逆である。市民がパッケージ化された財、サービスの消費の面で訓練されればされるほど、かれは自分自身の環境の形成にあたっては実効を持たなくなってくるように見える。彼のエネルギーや資力は、自分の基本的商品(staples)のつねに新しいモデルを購入することに費やされ、環境は彼自身の消費習慣の副産物になってしまう。

[中略]だれもかれもマイカーを“必要とする”限り、われわれの諸都市は、いっそう長時間の交通渋滞と、それを軽減するための馬鹿らしいほどの金のかかる対策とに悩まされなければならない。健康が最大の寿命延長を意味する限り、病人はますます異常な外科的処置を受け、それに伴う苦痛を殺す薬剤も必要となろう。子どもたちが親をうるさがらせないようにし、あるいは街頭や労働現場から子どもたちを引き離しておくためにわれわれが学校を利用しようとする限り、われらが青少年は際限ない学校化のとりことされ、この苦難に耐えるためますます多くの刺激を必要とすることになるだろう。 》(同上、P.212)
 
 
 学校は、私たちから自分で学ぶ能力を奪い、近代的交通システムは、同じく自分の足で歩く能力を奪い、病院は、本来備わっている自然治癒力を衰退させると、イリイチはいう。 
 
 
 それほど矛盾に満ちた既成制度による人間の支配が、今まで維持されてきたのは、「専門家権力」が、こうした仕組みを正当なものだと人々に思い込ませているからであると彼は考える。 
 
 
《商人は仕入れてある品物をあなた方に売る。ギルドのメンバーは、作った品の品質を保証する。職人のなかには、あなたの寸法や好みに合わせて、品物を作ってくれる人もいる。ところが専門家は、あなたが何を必要としているかを断定し、処方を書く力を自分たちはもっているのだと主張する。彼らは、良いものを推薦するばかりではなく、実際に何が正しいことかを決めてしまう。専門家を特徴づけるものは、収入でもなければ、長期の訓練、デリケートな任務、あるいは社会的格式といったものでもない。むしろ、人を顧客と定義し、その人の必要を決定し、その人に処方を申しわたせる権威こそ、専門家の特徴なのである。》(『専門家時代の幻想』P.18)
 
 
しかし、イリイチは、今は、こうした「専門家権力」と「既成制度」の支配に人々が疑問を持ち始めた時代であるという。彼によれば、現代生活様式にかわる新しい社会の特徴を予言することはできない 。確かに、現実の社会にかわるものを空想するのは、社会科学の仕事ではない。現実の社会の中に、既に形成されている新しい社会の条件を発見するのが社会科学の仕事である。ただ、イリイチの場合は、空想を退けるだけで、あたらしい条件を指摘していないので、彼が、中世の職人や農民の生活を理想化しているのではないかという疑問を、人々は拭いさることができない。
 
 
《 さて、私の見る限り、あなたのユニークな見解は、つぎのような点で世間から若干誤解を受けるおそれがあるように思われます。それは、イリイチさんの考えはいたずらに過去を賛美するというか、現代の危機を克服するためには昔に戻ったらよい、というふうに誤って理解する人がいるのではないかということです。》(イリイチとの対談「現代産業文明への警告」での玉野井芳郎の発言、玉野井『生命系のエコノミー』p.227)
 
 
人間を支配する道具を、それを使う人が自在に使いこなせる道具に転換するといってもそれがかつての職人の道具のようなものであるとしたら、それは、特定の道具とそれを使う特定の職人との関係の中でだけ、人間の自律性が実現しているだけである。その職人は、彼の仕事場の外では少しも自由ではない。あるいは、他者との関係において自由ではなく、封建領主や親方に人格的に隷属しているのが普通である。人格的隷属の問題は、ここでは抜きにするとしても、孤立した人間が、道具に対して「これは自分のものなんだ」という態度で関わることができるのは、道具そのものの発展度も低く、人間相互の交流の地域的広がりもあまりない小さな孤立的社会の中だけである。(つづく)
 
 
 
コメント
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経済発展を単なるGDPの肥大化と等置してみたり、生産力と疎外された生産力を同一視したりするような粗雑な議論が3.11以降の昨今またまた勢いを増しているようですね。
こういう粗雑な議論は、容易にペシミズムやナロードニキ的ロマンチシズムに結びつきます。そして真の改革方向を見失わせる。
当方は、そう言う状況からもマルクス的な産業構造論や再生産論の発展が急務だと主張しているんです。 削除
[ バッジ@ネオ・トロツキスト ]
2012/8/9(木) 午後 6:59
               
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上記の主張は、都留重人さんのGDP神話批判や宇沢弘文氏の『自動車の社会的費用』が登場する以前、代々木が「生成期社会主義」論なんていう中途半端な自己弁護論を得意げに言いふらしている前からの自説ですが、そのきっかけは『剰余価値学説史』や『帝国主義論』研究でした。
「犯罪者は犯罪を生産するだけでなく、刑法をも、またそれと同時に刑法を講義する教授をも・・・・・(さらには、その教授が執筆する)概説書をも生産する。これによって(ブルジョア)国民的富の増加が生ずる」(『学説史』 カッコ内は引用者)云々やレーニン『帝国主義論』中での寄生性・腐朽性批判です。

やはり、「実在する当為」や「非理性的形態での理性の現在」としてのビジョン研究は不可欠でしょうね。20世紀の「青写真論批判」は国家資本主義による社会主義僭称に加担する教条でしかなかったように思いますよ。 削除
[ バッジ@ネオ・トロツキスト ]
 
2012/8/9(木) 午後 7:00
  
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【主たる素材】百木獏「マルクスの未来社会論を再考する」

 

 最初に断っておくと、百木さんのこの論文全体を取り上げたエントリーではありません。たった1ヵ所、以下の部分に関するものです。

マルクスの未来社会論が抱える困難は多岐にわたるが、実はこの「諸個人の全面的発達」、すなわち「アソシエーションのアソシエーション」を実現・実践しうる主体の登場こそが、最大の困難であると言うことができるのではないか。マルクスの描くアソシエーション社会に期待を寄せる論者の多くは(もちろんマルクス自身を含めて)、こうした「諸個人の全面的発達」を所与の前提としているが、おそらくはマルクスのアソシエーション論の最大の難関はそこに存するのである。

 まず、「諸個人の全面的発達」というのがそもそも胡散臭い。マルクス自身は、『資本論』第1部第13章では、諸個人の発達については「全面的」(allseitige)とは言っていません。「労働者の全面的可動性」(allseitige Beweglichkeit des Arbeiters. )で「全面的」を使い、諸個人の発達については、「全体的に発達した諸個人」( das total entwickelte Individuum)と「全体的」(total)を使っているのです。一見大した違いはないように思えるかもしれません。しかし、「全面的発達」と読み違えた瞬間に「一人一人の人間があらゆる方面に精通している」という無茶な話に見えてくることは避けられません。「全面的」なのは発達ではなく、「可動性」です。少々大袈裟な描き方ですが、「全面的」とは「多数の生産部面へ」という意味に他なりません。そのことは、「全体的に発達した諸個人」の内容規定からもうかがい知ることができます。

さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人

必ずしも一人一人がすべてをこなすことが要求されているわけではありません。多様な機能を次々と行使するということです。確かに、その多様な機能を行使しうる能力が相互に孤立した各個人に属するものであるなら、これは超人だらけの世界ということになるでしょう。しかし、われわれは、ここでフォイエルバッハ・テーゼ6を想起すべきなのです。

人間的本質は個々の個人に内在する抽象物ではない。現実には、それは社会的な諸関係の総体なの である。

*ただし、この「総体」は、 Ensemble(アンサンブル)

全面的な能力を一人一人が例外なく備えなくても、相互補完的な関係の中でトータルな存在として社会的な能力を自分のものとして活用できるということです。単独者としてすべてをこなせる能力を一人一人が自分に内在させましょうという話では、全くありません。

諸個人は自己の主体性の発現過程たる労働の過程において,自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している(社会的労働!)。主体とは再三強調したように自己の諸前提を産出しつつ自己関係する自立的運動であるが,個人はこのような主体として,自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定しているのである。1個の個人において実在する同一の主体的自己媒介運動は,同様の自己媒介運動構造をもつ他の諸個人を前提するとともに自己のために措定している。(有井行夫「マルクスの社会システム把握と矛盾論・疎外論・物象化論」)

ここで有井氏が述べているのは、諸個人の一般的な在り方であって、特殊資本主義的な在り方でもなく、資本主義を乗り越えた自由な個体性としての在り方でもありません。

 では、資本主義において上記のような一般的個人は、どのような特殊歴史的な規定を帯びるのでしょうか。それはこうだと思われます。実際には、「自己の現実化の媒介契機として自然とともに他の諸個人を不断に措定している」にもかかわらず、全くその自覚がないまま、結果的に、排他的な諸個人として互いに私利私欲のために「自己の前提たる他の諸個人を自己実現のための媒介形態として不断に措定している」のが、物象的依存関係(資本主義)における諸個人です。

 それに対して、未来社会の諸個人は、自分たちの相互媒介性に無自覚な故に互いに排他的にふるまう状況を克服した個人、自覚的な協力関係の中で「さまざまな社会的機能を次々と取り換える全体的に発達した個人」なのです。

 そして、このような個人は、確かに未来社会の成立にとって不可欠の前提条件ですが、しかし、それ自身の根拠を欠いた「所与の前提」、マルクスの願望の産物などではありません。

近代工業は、生産の技術的基礎とともに労働者の機能や労働過程の社会的結合をも絶えず変革する。したがってまた、それは社会のなかでの分業に絶えず変革し、大量の資本と労働力の大群とを、一つの生産部門から他の生産部門へと絶えまなく投げ出し投げ入れる。したがって、大工業の本性は、労働を転換、機能を流動、労働者の全面的可動性を必然的にする。

むしろ、それは、資本主義それ自体が生み出した「労働者の全面的可動性」をいわば逆手に取ったものなのです。大工業の資本主義的な形態は、労働する諸個人に多面的な機能の担い手となり、資本の都合に応じてその機能を代わる代わる果たすことを強制します。資本の勝手な都合によって、あの部面からこの部面へと追い回される不安定な生活の中で否応なく身につけさせられた多面的機能を、個々バラバラにではなく、トータルに、つまりアソシエイトした主体として、発揮することが資本主義乗り越えのカギです。勿論、それでもなお、全面的に可動的な労働者から「全体的に発達した諸個人」への転化は、確かに困難を伴うでしょう。しかし、百木氏のように、「全体的に発達した諸個人」を、無前提に出現することが根拠もなく期待されているに過ぎないものと見てしまえば、この転化の困難さや障害が具体的にどのような内容を持つのかすら理解できないことになるでしょう。そして、実際に百木氏はそれを理解していないのです。

 

 

 

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