【「過去」との対話】「従属的帝国主義」について(その1) | 草莽崛起~阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)のブログ

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自虐史観を乗り越えて、「日本」のソ連化を阻止しよう!

立正大学・金子勝教授(テレビでよく見る慶応の金子氏とは別人)は、2005年8月1日に自民党が発表した「新憲法第一次案」を分析して次のように結論付ける。
 
《「軍制」に関する各条項の設置によって、日本の国家は、現行憲法の武装権と交戦権(戦争権)を放棄した戦争しない「平和国家」から、武装権と交戦権と自衛権・集団的自衛権を保有する「戦争する国家」に変身する。そして、それを基礎にして、日本の国家は、対外的には、米国主導型米日核軍事同盟体制としての「日米安保条約」体制に基づく、アメリカに従属して、世界中で侵略戦争と制裁戦争を実行する「対米従属的戦争国家」となる。これは、アメリカ・ブッシュ大統領政権の要求に応えたものである。

対内的には、日本の国家は、現行憲法の軍事暴力を行使しない「平和国家」から、政府に反抗する国民を自衛軍で弾圧・殺害する「暴力国家」となる。これは、日本の政府の指導者の選出の大枠とその政策の大枠を決める日本の財界(日本の資本家階級の代表)及び政府を動かす高級官僚層の要求に応えたものである。

この先に見えるものは、日本の対米従属的帝国主義化であり、「日米安保条約」体制から生まれる「『安保』ファシズム」化である。》(憲法9条フォーラム推進委員会ニュースNo.6)
 
こうした認識を十分には共有できていない日本共産党現執行部がどのような実践的誤りを犯しているかについては、「アッテンボロー」氏の指摘が正鵠を射たもののように思える。
 
《米帝は唯一世界中に展開する実力を持つ帝国主義であり、そこから世界中を支配するための戦略を常に練っている。対日戦争計画はたしかオレンジ作戦と言ったと思うのだが、米帝は現在は友好関係にある帝国主義との間においても、それが例え英帝であっても全ての帝国主義との間における戦争作戦を国防省で研究している。それは常に最新の情勢に合わせて練り直されており、唯一の超大国としての地位を守るために研究を怠ることはない。その観点から日米安保を通じて日本を米帝の戦略に従属させる形で動員することを狙っているのだ。そして、日帝の側からすると敗戦帝国主義としての制約によって人民の中に今日なお広範に存在する反戦意識を始めとする諸条件を叩きつぶすために、米帝の戦略に付き従うことを通じて戦争の出来る「普通の国」帝国主義らしい帝国主義への飛躍を狙っていると言える。この点を見落としているために日共スターリン主義の「対米従属論」は、言ってしまえば「アメリカの言いなりは良くない」と言うことで日帝の独自の軍事大国化に対するエールとなっているのだ。》(2006年2月 7日 (火)のエントリー「帝国主義間争闘戦」)
  
ただし、いずれの議論も、アメリカ自身の従属性という問題を十分捉えていない。この問題に肉薄している点で、ネグリ&ハートの一連の議論には一定のメリットがある。
 
古い論文だが、北田芳治の論文「多国籍企業と世界資本主義」(『講座 現代日本資本主義 第1巻 世界と日本』青木書店1973)が、この問題にある程度接近していて興味深い。
 
《アメリカの戦後の対外経済政策が持ってきた楯の両面、この両面は相互に鋭く矛盾している。いわば、「国家」としてのアメリカ資本主義の世界市場における地位の相対的後退、企業としてのアメリカ独占資本の世界的な支配力の進展との矛盾である。今日アメリカ独占資本という場合、われわれは、アメリカ国外で大規模な生産活動を行っているその姿のままの資本を全体として思いうかべなければならない。このアメリカ独占資本にとって、地理的範囲でのアメリカ国民経済の弱化は、その世界的活動にとって大きな障害であるに相違ない。しかし、その解決は極めて困難である。たとえば、技術先端的産業の海外進出によって、アメリカ国内に相対的に対外競争力の低い産業の比重が大きくなることも作用して、アメリカ国内に保護主義の波の高まるのは避けられなかった。自由通商に果たしてきたアメリカのリーダーシップが失われることによって、世界市場の分裂化傾向が強まることは、アメリカ独占資本の利益にならない。》
 
もちろん、北田氏は、この相対的に正しい分析から、「多国籍企業」による「国家主権に対する攻撃」から「国家主権」を防衛せよという、われわれとは正反対の結論を導くのではあるが。
 
その問題は、稿を改めてさらに追究するとして、ここで最後に指摘しておきたいのは、この論文が書かれた時期と違って、今日の多国籍企業は、さらにもう一段進化した存在となっているということである。
 
《企業活動の国際化は,企業にとっての国籍の持つ意味を希薄化していく。地球規模で事業活動を行うという意味では,多国籍化した企業は国家を越えた存在であるといえるが,多国籍化した企業は,各国で納税や法令順守などの義務を負うことになる。進出する国が増えるほどに,これらにかかるコストも増加することになる。このため,[…中略…],企業自らが創業地を離れ,これらのコストが非常に小さい国,とくに国際金融センターとして著名なスイス,香港,シンガポールなどに本社を移すことも検討される。企業にとっての国籍は,その国が事業活動を行いやすいかどうかや,税負担の最小化を実現する環境が提供されているかどうかよりも軽い存在となる。》(宇都宮浩「企業と国籍― 企業の多国籍化と課税管轄権 ―」『立命館経営学』第48 巻 第4 号 2009 年11 月)
 
すなわち、企業は必要に応じて本社所在地を変えうるのであり、利潤の集積場所もそれによって変転するのである。資本所有の状況などで国籍を特定しようという考え方があるが、法人所有がここまで進んでくると例えば、アフリカのⅩ国の子会社をアメリカ本社を置く企業Aが100%出資で所有していてもこのA自身が、アメリカ以外の投資家(個人ならず機関・法人を含む)に所有されているならどうなるのか。
 
まだまだ、それほど多くはないといえ、特定の国家との固定的結びつきを持たない企業は、今後増えていくだろう。
 

朝日新聞The Globeで、ソフトバンクCEOの北尾吉孝氏が同様の認識を開 陳している。一方,柄谷行人氏は、「多国籍企業は国家を超えていない。」と主張している。交易条件を整備するのは、国家であるという柄谷氏の指摘は、依然として 正しいが、そのために個々の企業が特定の国家と結びつく必要がなくなってきていると我々は考える。