ベネズエラ勤務 | 欧州サッカークラブとの仕事を語るブログ

ベネズエラ勤務

在ベネズエラ日本国大使館で働いていた期間は、2000年9月~

2002年9月です。


なぜスペインではなく、南米で勤務したかというと、大学時代に

学んでいた国際協力関係の分野に興味があったのです。

元々国際協力関連の仕事で食べていこうとは思っていなかった

のですが、日本での社会人生活をしているうちに国際協力の

仕事もしたいなという考えが浮かんできました。


おそらく大学時代に国際協力の勉強をしたことと、大学時代に

コスタリカ、エルサルバドル、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコ

をバスで旅行したときに感じたことが影響してたんだと思います。


南米だと国際協力関係の仕事と接することが多いだろうという

のがベネズエラを選んだ理由です。 実際、働きはじめてから

はJICAの人や国際協力関係の仕事をしている人から情報を

得たり、国際開発学の本を読んだりして結構勉強してました。


ベネズエラという国の説明をすると長くなるので省きますが、

治安がめちゃくちゃ悪い国で、ホテルなどは、ドアの前に

鉄格子がありますし、夜、車に乗るときは信号で絶対とまっては

いかないというような国です。



市内

そういう予備知識が入っているので、町行く人の半分以上

は強盗に見えました。


いえ、これ本当です。

最初は少しでも誰かが近づいてくると、ゴルゴ13より

早いんじゃないかというぐらい急にふりかえってました。


実際、私が勤務していたときには強盗は日常茶飯事、

誘拐事件などもありましたし、クーデターも起こりました。


といっても、日中は結構のんびりで、町を歩けばマンゴーが

なっているというようなところです。



カラカス


大使館の仕事をしているうちに、国際公務員になりたいなという

思いが芽生えてきました。国際公務員になるためには最低でも

修士、かつ英語、スペイン語ができて、発展途上国での勤務経験

があると有利というような感じでしたので、ベネズエラ勤務中は

毎週2回プライベートレッスンで英語を勉強していましたし、

週1回はフランス語の学校にも行っていました。


この頃は正直サッカーのことは頭の片隅にしか残っていません

でしたね。ベネズエラでもプレーはしていましたが。。


ベネズエラでの2年間は本当に楽しかったです。

車で5日かけて、陸路でブラジルにもいきましたし。


国境


2001年9月11日ニューヨークのテロのときは、大使館で

テレビを見ているところでした。ちょうどその2日後に

姉の結婚式に参加するため、ニューヨーク経由で日本

へ帰るところだったのですが、テロでフライトキャンセル。

地球を逆まわりし、オランダ経由で帰りました。


カラカスから10時間のフライトで、アムステルダム着で

3時間待ち、そこからさらに12時間のフライト。まじで

死にます。




お気づきの方もいるかもしれませんが、私は2002年ワールド

カップはベネズエラでむかえました。


ベネズエラに行く最大のネックが日本で行われるワールドカップ

が見られないということだったのです。本当に悩みましたが、

やはり自分のやりたいことが大事ということで泣く泣く海外赴任

しました。



ベネズエラでの日本サッカーの注目度はゼロでした。

日本との時差が13時間もあったので、日本で行われる試合は

ベネズエラでは深夜でした。 有料放送に入っていないと

試合を見られないので、どこかパブリックビューイングをやって

いるところは・・・と探したものの、そんなことをやっているところ

はなく、最終的にたどり着いたのはホテルのロビーでの観戦

という荒技です。笑



大使館の何名かの面子に声をかけ、みんなでパブリックビュー

イングをしようといって集まったものの、ふたをあけてみると

集まった人数は2人。 ベルギー戦、鈴木のゴールでめちゃ

めちゃ喜んでいる我々の声がロビーにこだましてました。。



長くなってきたので話をまとめますが、ベネズエラから帰国

するときには、26歳。


帰国後社会人入試でJICAを受けようと思っていました。


そこから人生のどんでん返しが起こるわけです。

いや、まじで人生ってわからんもんですよ。