カンチャナブリへの旅、第6回目です。



ところで、この博物館には、先ほどの連合軍のお墓同様、


昔は日本語訳が掲示されていなかったそうです。


広島の大学生が、高校生の時に交流キャンプに参加して、


この鉄橋建設のことについて学び、


日本人こそ、この出来事を知るべきだ!!、と


発起して翻訳作業に取り掛かったというのです。



その大学生がこの方。


国際結婚日記 in タイランド ~喜怒愛楽 バンコク通信~


なぜなら、英語での解説にはこう書かれていたから。



Forgive, but not forget


国際結婚日記 in タイランド ~喜怒愛楽 バンコク通信~



当時の様子が詳しく書かれた、この英語のメモ。


英語が分からない日本人は、せっかく博物館を訪れても、


これを一切読まずに素通りしていた、というのです。



だから1994年、この広島の大学生が「マイペンライ友の会」と一緒に、日本語訳をしたのです。




許そう、しかし忘れまい。




国際結婚日記 in タイランド ~喜怒愛楽 バンコク通信~

日本人こそ、忘れてはならない。


もう二度と、こんなことが繰り返されないように。



お墓を見て、



終わった戦争に、私たちができることは、少ない。



そう思っていた矢先に、こうして


「いや、ちゃんと、できることがあるよ!」と、



この大学生(当時)に教えてもらいました。


過去の悲惨な出来事から目を背けずに、これからの社会や若い世代にも


翻訳という作業を通して、戦争を語り伝える貢献をしたこの学生。


1994年当時大学生ということは、もしかするとほぼ同年代、きっと


今は30歳代でしょう。今もタイに関するどこかの方面で活躍されている方かもしれません。



国際結婚日記 in タイランド ~喜怒愛楽 バンコク通信~


この鉄橋や線路がタイのクワイ川からビルマまで、どうつながり、


日本軍がどう進んでいったのか、を示す模型です。


鉄橋を手がかりに、さらに侵略を計画していたことが分かります。




博物館を後にして、とても重たい気持ちを引きずっていました。


日本軍は、そんなに悪いことをしてしまったのか、と。


きっと死んだ捕虜の遺族は日本人を恨んでいるのではないか・・・とも。


でも、戦争は白黒つけられる単純なものではないはずです。


日本人も悪かった。


じゃあ、広島と長崎に原爆を落とし、終戦に持っていったアメリカは悪くないのか。


何人が悪い、何人は悪くない。


そんなこと、きっと言い合う価値はないのです。




終戦は1945年。約65年前の話。



驚くべきことに、そう昔のことではないのです。


いま、65歳の人は当時すでに生きていたことになるのですから。



また映画『戦場にかける橋 』の感想を寄せたという、


当時の様子を知る日本軍の軍曹は


重労働で白人がバタバタと倒れていく映画のシーンで、


日本人が批判的に描写されていることについて反論があったようで


当時は日本人も白人捕虜と同じ粗食(野菜・パン・スープ)を食べていたことや、


肉食中心の白人たちには一部(懇願されてか)、肉を支給していたこと、


逆に日本人の方が交代制の捕虜たちより、重労働で


徹夜で働いていたことを指摘しています。


ハーグ条約 (当時の捕虜に対する取り扱いを定めた部分についてと思われる)に違反したわけでもなく、


白人が圧倒的に体力がなかっただけ、すぐに肌が赤くなるし、とも書かれていて、


(もちろんこの軍曹の、自分の立場を守るための偏見である可能性も大いにあり得るわけですが)、


そういう見方もできるのか、と。


確かに日本軍の指揮、とひとくちで言っても、


捕虜に対し残酷だった日本人もいれば、寛大だった日本人もいたのではないか・・・、


と、なおさら考えさせられました。



また、重要なのは、こういったものを大急ぎで作ろうとした当時の日本軍側には


次はビルマを侵略するのだ、というはっきりとした目的意識があったのに対し、


捕虜たちには「ただ、やらされている」という思いしかなかったことも、


体力・気力、ともに日本軍より持たない原因だったのではと思います。



それは現代の、わたしたちの仕事に対する姿勢にもつながるもので


ただ上司に「やれ、やれ」といわれても、部下本人が


なぜ、なんのために、これをするのか」という


意思のようなものが欠落していると、


結果、仕上がりも悪くなりがちだということです。


極端なたとえ話ではありますが。



そして、別の意味で興味深かったのは、博物館ではタイ人の犠牲者については


ほとんど語られていなかった点です。


当時、タイは日本軍がここで鉄橋を作ることについては容認する体制


(日本軍側にも連合軍側にもついていなかった)だったそうですが


先ほどの映画に感想を寄せた軍曹によれば、捕虜だけではなく、


現地人も鉄橋建設に協力していたとのこと。


であれば、例の空爆でタイ人も死んでいるはずだし、


立場は捕虜と同じではなくとも、似たような重労働の強いられたのでは?と


思えなくもありません。


しかしタイ人の死者については英語のメモでも特段述べられていないので


数十万人というアジア系の死者の中にざっくりと含まれてしまっているのか?と。


もっとも、タイ人がどれくらい犠牲になったかを明らかにし、


それを掲示することについて、博物館としても(もしくは歴史的にも)


たいした重要な意味は持たないということのなのかもしれません・・・。



なぜ、こんなことを考えたかというと、


仮にタイと日本が当時闘っていたとしたら、


今の日本とタイの関係はなかったかもしれないからです。


タイは多くの諸外国と友好関係にあり、


(カンボジア国境問題やミャンマーからの不法入国問題等、一部緊迫関係はありますが)


日本と一部の諸外国の関係などに比べれば


領土問題や様々な確執は少ないような気がします。



以前にも書いたことがありますが、国と国との問題は外交の問題です。


しかしながら、私たち個人のレベルまで、降りてくることもある。


今では戦争の恨みで、この国の人とは付き合いたくない、ビジネスをしたくない、


または結婚したくない、などという人は減ってきているように思えますが、


一部の人は今でも胸にしこりを残している可能性があるのです。



許そう、しかし忘れまい。



皆さんにも、ぜひ考えていただきたい言葉です。


国際結婚日記 in タイランド ~喜怒愛楽 バンコク通信~




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