その神はどこにもいない | あるさの日々これ出会い

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観に行った舞台やライブなど、思いつくままに書いてます。


ちょっと日本人には想像しにくいことですが、21世紀の現在でも、世界の国々には、特定の神様を信じている人、つまり信仰をもっている人の方が、無信仰・無宗教の人よりも、はるかにたくさんいます。

日本人の宗教観については、専門家たちがいろいろと興味深い本を書いているようですが、ともかく我々の日常生活の中では、外国人を除いて、「敬虔な○○教徒」という人に出会う機会は、それほど多くはありません。


自分も、特定の信仰を持っていない日本人の一人です。
原始仏教には興味があり、文献も少しだけ読んだことがありますが、信仰しているわけではありません。


ただし、好きな神さまが、実は一神(と数えるのかな?)だけいます。
この神様の信者だと言われてもかまいません。

でも、ご心配なく。
ブログで宗教の勧誘をしたりはしません。

というよりも、この神様への信仰は、誰にも勧誘できません。
なぜなら、自分の好きなその神は、存在しないからです。


1980年代に、鳥図明児(ととあける)というかわった名前のマンガ家さんが、『虹神殿』(にじしんでん)というマンガを描きました。

今では多分、古本屋でも手に入らないと思われるこのマンガの中に、自分の好きな、その神様は登場します。
その神の名を、「空神」(くうしん)といいます。

空神は、一人ではなく、複数の神の名です。
この物語の舞台である、インドによく似た南アジアのある国で、この神様は信仰されていました。

この神は、人間よりはるかに高次の精神体で、この世の森羅万象(しんらばんしょう)を見て、理解することができます。

しかし、この空神、人間には、何の利益ももたらしません。
現世で人々の健康や商売繁盛の面倒をみてくれもせず、来世で天国に連れていってくれもしません。


この物語の中の国では、昔、人々は、空神の姿を普通に見ることができました。

しかしこの物語の時代には、人々の信仰心は薄れ、この神を見ることができる人はほぼいなくなり、神殿は廃墟になっています。


この物語の主人公は、サーナンという青年です。
彼は、この信仰が薄れた南アジアの国で、いまでも空神の姿を垣間見ることができます。

しかし、そのサーナンに対して空神たちができることといえば、彼の夢に出てきて黙ってたたずんでいることと、空気をわずかに振動させて、彼の名(サーナン)を呼ぶことくらいです。

夢の中でも、起きているときも、サーナンは様々な疑問を感じて、空神に問い掛けます。
しかし、空神たちは、何一つ答えてくれません。

さらに、この神様は、不死ではありません。
何百年かに一度、いままでいた主神が不意に存在しなくなり、新しい主神が現われます。


時に、この『虹神殿』の世界の中で、空神たちが、人間の葬儀の列の後に、ついていくことがあります。

この世にほとんど関与できない、この死すべき神たちは、人間に決して無関心ではありません。


この、すべてを知りながらも無力で、悲しく、やさしい「死すべき神々」が、自分は、たまらなく好きです。

彼らは人間よりはるかに優れた存在で、同情すべき相手ではありません。
ただ、彼らに何もしてもらわなくてかまわないので、彼らを礼賛し、ともに喜び、悲しみたい。

ご利益(りやく)のある神様は、自分には、どうにも落ち着きません。

まあ、もしこの空神が本当にいても、信じたって何もいいことがないんじゃ、流行りませんけどね、宗教としては。