初めは、只の綺麗事だった。

その事実に、彼女は頷く。

強さを、彼女は持っていた。

ところが、あの世界に降りた時からそうであった訳ではないと言う。

辛い思いを抱き、寝付けない夜もあったらしい。

しかし、だからこそ、彼女は現在(いま)を手にした。

勝手な優しさが、己のプライドであった事を理解した。

人と自分を比較せず、只、其処に在る物を見つめる瞳。



そんな揺らぐ事の無い視界が、わたしにもあったなら。



羨ましくなる。
主観や客観を使い分けない、在りのままを認める心。
見たものが見たままに。 すとんと降りてくれば良いのに。



「ザ ワールド?」

やっと全ての授業が終わり、帰りの学活に向けて、バッグに教科書を詰めている時だ。
五時間目の席替えにより、
わたしの後ろが座席となったヤスヒコの言葉を、そのままの形で返した。

「聞いた事位あるだろ?」
「ネットゲーム、だったよね。」
「あぁ。 でも、只のネットゲーじゃないんだ。」

そう、いつもより生き生きとした調子で、ヤスヒコは話し出した。

「凄い数のプレイヤーが居てさ。 色んな遊び方があるんだ。
PKって言って、人を殺すのが目的の奴も居るけど、
レベル上げする奴、難関イベントのクリア目指す奴、アイテム集めする奴。
色々居て、世界観もあって、面白くて。」

世界観。 聞いた話によると、ネットゲームは、
ユーザーのプレイ料金やアイテムの使用料なんかで収入を得ている。
わたし達を如何に長く捕まえていられるかが肝の筈だ。
なのにそういう、つまりはシナリオなんて物が存在するのか。

シナリオのあるゲームは、シナリオの制覇からENDマークを授かる。
それは、オフラインのゲームにとっては、至極当然だけれど。
終わらせたくないゲームにクリアという出口があるとは、どういう事なのだろう。

「その世界観って?」

問いながらわたしは身体を捻り、ヤスヒコの机に頬杖を付いた。

「んー・・・何か、あるらしい。」
「らしい、ってさぁ。」
「否、そう言うのにも理由が在ってだな」

ヤスヒコは、自分とわたしとを隔てていたバッグを机の脇に掛けると、
此方に顔を近付けてから、静かに言った。 耳打ちでもするかの様に。

「不可解な現象が起こるんだ。」
「裏技とかで出てくる物かもしれないじゃない。」
「そういうのは、バグって言うんだ。 それなら、管理側が消して終わり。
でも、そうじゃない。
つまり、管理側にも知られてない何かが、“The World”には潜んでる。」

・・・真顔。 いつの間にか、ヤスヒコの表情はそれになっている。
からかうつもりは無いらしい。

「例えば、何が?」
「例え。 そうだなぁ・・・」

「阿呆。」

その声と共に、不意に、わたしの頭に軽く何かが当てられた。
プリントの山、だ。

ヤスヒコが不満そうに見つめている先を振り返ると、
思った通り、其処にはゆずの姿が在った。

「言われただろ、学活の時に配れって。」
「あっ、御免。」
「もうこの列だけだから。 一人四枚ずつ。」

言われながら手渡される、国語のプリントの束。

「この列で終わりなら、自分でやっちゃえば良いのにー。」

ぼやいたヤスヒコに拳をすとんとぶつけると、
痛がっている本人を置いて、さっさとゆずは座席へと戻ってしまった。

「・・・理咲ッ!」
「ん?」
「アイツと縁を切れ! 危険人物だ!」
「はあ?」

残りのプリントを手に立ち上がりつつ、ヤスヒコの言葉に眉を寄せる。
縁とは大袈裟な・・・、いつも一緒、という訳でもないのに。

「でも、何かさ。」
「あ?」

(今日のゆず、ちょっと変だな。)

口に出さずに心の中だけで呟くと、「何だよ?」と、彼からの声が掛かる。

「ううん・・・、良いや。
じゃ、ゲームの事は、また。」

そう残して、わたしは教壇の辺りまで歩いていった。



がやがやと騒がしい、放課後の校庭。

帰宅部なのだろう。 花壇の前に、三、四人の生徒が円を作って座り込んでいる。

リラックスしている彼らとは正反対の様子で、その直ぐ前を走るサッカー部。
本日のメニューは、憂鬱な基礎トレだ。

勿論この日も、わたしは彼らと同じ運動量をこなす。
頑張るって、ちゃんと決めたのだから。

「ちわー。」

最後尾で走っていると、掃除か何かで遅れたのか、浅村君が加わってきた。
外周はさほどきついものではないので、暇潰しがてら、隣の彼に話し掛けてみる。

「土曜は頑張ってたね。」
「あ、そう?」
「うん。 接戦って感じだったよ。」

この言葉に、緩く口角を上げる浅村君。

彼は、サッカー部の人間にしては目立ちたがりでなく、寧ろ素朴な傾向にある、のんびり屋だ。
ひょろりと背が高く、顔の作りも良いから、女の子には人気がある。
でも、髪にワックスを付ける様な事も、人によって態度を分ける事もしない。
人気はあっても、人気(ひとけ)に欠けるタイプ。
・・・と、ゆずに駄洒落を飛ばされていた。 どうやら、二人は仲良しさんらしい。

ふと、浅村君が周囲を見回した。

「来てないの?」
「誰が?」
「あの三年二人。」
「嗚呼。」

彼らとの土曜日を思い出しながら、厭きれた調子で相槌を打つ。
雑用、基礎トレはしない癖して、試合形式の時にだけ来るんだもんな。

「あんまり言いたくないけど、いつもの事だよ。」
「んでも、今日は倉庫に居た。」

倉庫?

「中漁ってたから、備品でもパクったか。」
「・・・。」
「まあ、いっか。」

曇るわたしの顔を察して、浅村君が切り上げる。
土曜日の事があってか、つい、深追い気味の妄想をしてしまった。
倉庫。 備品には、バット、鉄パイプ、壊れた机の脚。

(・・・まさかね。)



「遅いなぁ。」

着替えを早めに済ませて、校門近くの塀に寄り掛かっていた。
試合形式でない日だけ、ゆずと此処で落ち合って、一緒に帰る事になっているのに。
彼女は現われない。

四月とはいえ、雨上がりの夕方は、まだひんやりしている。
目を閉じてみると、冬の朝が思い出された。

(何してるんだろ。)

もっとも、一週間前に貰ったメールへ平然と返信する、わたしの思う事ではない。

けれど、横を通る人が疎らになるにつれ、待ち切れないという気持ちが高まってくる。
お腹が空いてきている事も手を貸しているのだろうか、
酷く、この状況が心細く感じられる。

意を決して、二年生の下駄箱へと戻ってみた。

(あれ。)

「柚木 愛」の、靴が無い。
先に帰った?
でも、彼女に限ってそんな・・・否、用事を思い出したのかもしれないし。
苛々だけは起こしたくなくて、
ああでもないこうでもないと、必死でゆずを弁護してみる。


「河東じゃん。」

声のした左側へ視界を移すと、
浅村君と話題になった、あの二年生二人組の立ち姿が。

「お前さぁ、良いトモダチ持ってんだな?」

分かってる。 嫌味だって事は。

「柚木さんに、何かしたんですか?」

コイツらが言う“トモダチ”なんて、彼女の事としか思えない。

「・・・。」

わたしに問われ、彼らが、互いの顔を確かめ合う。
少し、笑った気がした。
そのまま何も言わずに去ろうとしたものだから、わたしは金髪の方の腕を掴んで、

「何かしたんですかっ?」

もう一度問い掛けた。
しかし、乱暴に払われただけで、その場を発たれてしまった。
離れていく手には、棒状の武器。

(バット・・・。)

もし、浅村君が教えてくれた事から想像した出来事が、
実際に起こっていたのだとしたら。

思い付いてしまうと、わたしの心臓は落ち着きを失った。
彼らが来た方向、体育館へと続くドアを開け放ち、全力で駆ける。

人目がつき難い場所なら、この方面に幾らでも存在する。
特に、夏場にしか利用されないプールの周辺は、
伸び放題の雑草で占領されている事もあって、事務員さんですら、あまり踏み入らない場所だろう。

(ゆず、ゆず!)

わたしの所為だ。
彼女にもしもの事があったら、わたしの―

「理咲っ。」

え?

「ゆ・・・あ、ゆずっ。」

こっちこっち、等と誘導され、漸く彼女を見付けるに至る。
硬い土の上に。

「どうして・・・。」
「気にすんな。」
「するよっ!」

威勢良く言い返したものの、心の底ではほっとしている。
特に外傷は無いみたいだし、何より、彼女の声は元気そのものだ。
が、土を払ってあげた後に「起こして。」と言われて、また不安の芽が吹かれる。

「怪我してるの?」
「一回起こしてもらえば、平気。」

言いながら、ゆずが寝転がった状態から、自分の両腕を差し出してくる。
身長はあるけれど、彼女はあまり重くない。 何の苦労も無く座る体勢にしてやり、そして

「アイツらに何された?」

真っ直ぐにゆずを見据え、訊ねる。
どうやら、彼女は困っている様だ。 視線を合わそうとしない。
・・・でも、秘密にさせておく気にはなれなかった。
引き金役となったわたしが素知らぬ顔をするなんて、出来る訳が無い。

「・・・腰をやられた、バットで少し。」

逸らした瞳が、わたしを取り戻す。
まるで、苦手な食べ物を咀嚼している只中に居る様な色で。

「朝礼の後に、“殴らせろ”って言われたから。」

・・・だから、さっきから機嫌が悪かったんだ。
しかも、元凶のわたしがあれでは、ぶっきら棒になるのも仕方ない。

「・・・御免なさい。」
「お前が言う事じゃないだろ。」
「だって、わたしが殴られる筈だったのに。」

わたしが決めた事だったのに。

「大丈夫だ、ほら。」

きっぱりと言い切ると、ゆずは立ち上がってみせた。

「帰ろう。」

わたしを振り向き、微笑しながら。


                 第五話(前編)、完(