あなたには聞こえますか?

独りじゃない、と、私に答えてくれた声が。

あなたには見えますか?

私を優しく寝かし付けてくれた、あの人が。

あなたなら感じますか?

私と共に傷付き、私を想って泣いてくれた、温かさを。

あなたなら出逢えますか?

何処に居るのか知れない、誰より私に優しかった、彼に―・・・。



これは、暮れる世界に置き去りにされた、一人の少年の物語。



わたしはまだ、スタート地点にすら立っていない。
序章にも及ばない状況に、置かれていた。
気付く筈も無い。



パリー―――ン!!!!

数学を5時間目に控えていたクラスの、昼休み。
いつもなら、部活のミーティングに参加しているか、図書室で本を読んでいる時だけど、
わたしは数式を解きに掛かっていた。
宿題のあった前夜に限って、溜まっていた疲れに耐え切れず、眠ってしまったのだ。
だから、手付かずの問題を、渋々と。

やっと終わりが見えてきて、一つ伸びをした途端。
音がした。 硝子の割れる様な音。

はっとして、前方へと視線を投げた。
テレビが備え付けてある棚の下に、男子生徒が蹲っている。

彼の背後を見て、わたしの喉が、ひゅっ、と、鳴ってしまった。

テレビ台の引き戸に張ってあった、硝子が無い。
正確に言えば、歪に裂けている。

何となく、分かった。
彼の目の前にいる、わたしの幼馴染が、彼とじゃれ合いをしていて。
彼の背中が硝子に強打する原因を作った。
多分そう。
だって、幼馴染―・・・ヤスヒコの身体は、細かく震えている。

「痛ェ―・・・っ!」

随分と間を空けてから、少年は唸り出した。
肩を押さえ、ぶるぶると揺れている。
わたしは、反射的に立ち上がり、彼等の方へ駆け寄ろうとした。


わたしと2人の間合いが重なる辺りで、しゅっ、と、何かが滑り込んできた。
驚いて、わたしはその場で尻餅を。

「いっっ」

その“何か”が、情けない顔をしたヤスヒコの肩に、べコンと言って、当たる。
ヤスヒコが、飛んできた物を地面に見遣った。

暗記に用いられる、クリアグリーンの、詰まらない下敷きだった。
異様なのは、それが、割れた2分の1部分だったって事。
運悪くヤスヒコは、丁度切れ端である角に当たってしまったらしい。
ワイシャツに、凹んだ痕が付いている。
そんな事に気を取られていると、

「江本。 先生、呼んで来い。」

鋭い声が、静かな教室に響いた。
今は昼休みという事もあり、教室内に居るのは、
男子生徒と江本 ヤスヒコと、その人。 後はわたしだけ。
要するに、下敷きの送り主は、あの人だ。

柚木 愛。
わたしとは、別の小学校から来た。
先日の、中二に上がる際のクラス替えで一緒になったものの、一度も会話していない。
顔立ちは兎も角、口調から何から、凄く男っぽい娘だ。

彼女は仁王立ちして、ヤスヒコを見下ろした。

「お前がやったんだろ?」
「で、でも・・・っ」

情けない。
戸惑いの色を滲ませるヤスヒコは、膝までガタガタさせていた。

「今は・・・平気だよ。 状況を説明すれば済む。」
「・・・・・・。」
「ほら。」

ヤスヒコに顎で廊下を指しながら、柚木さんは言う。
それに、やっとの事で頷いて、ヤスヒコは、早足に2階の職員室へと向かった。
わたしは相変わらず、硝子の粒すら及んでいない所で、座り込んだままだ。

「・・・御免。」
「え?」

柚木さんが眉を下げて、すまなさそうに謝った。
しかも、わたしに。

「河東さんの行こうとした所、破片が酷かったんだ。
咄嗟に怒鳴り付けそうになって、つい。 ・・・下敷きの事だよ。」

わたしの表情に、彼女は補足した。
優しそうな目をして。

あ。 彼は、この子の怪我は如何なのだろう。
「平気?」

そんな訳が無かった。
少年の背中には、3枚の破片が突き立っている。
ブレザーを着込んでいるから窺えないが、ワイシャツは血で湿されているに違いない。
けれど彼は、わたしの問い掛けに急かされる様にして、
自分の背へと手を伸ばし、一番大きな硝子を掴んでみせる。
まさか。

「抜いたら、血が出てくる。」
「・・・保健室のババァが、結局は抜くんだろ!?」

柚木さんの言葉に対して、丁寧な手当てをしない事で有名な、保健室の先生を掛け合いに出す。
だからって、こういう時ばかりは変わってくるだろうに。

「どっちにしろ・・・っ」

彼の声に被る形で、柚木さんは言った。

「素人が下手に抜いて、抜いたつもりでいて。
硝子が血管に残留してたら、循環して心臓に刺さるかもしれない。 死ぬぞ。」

男子生徒は、彼女に歯を食い縛って見せた。
と、同時だっただろうか。
バタバタと教室へ飛び込んできたのは、ヤスヒコだ。
彼の後には、担任の先生と、青みを帯びた白衣を着ている、例の保健医。

「江本は次の授業、受けてなさい。 途中で、呼び出すかもしれないけど。」

担任の先生のこの台詞に、ヤスヒコは仕方無しといった感じに頷いてみせた。
そして、怪我をした男子生徒を負って、先生二人が立ち上がる。
手伝おうとしたわたしは、柚木さんの声に留まった。

「硝子、片付けよう。 河東さんも、手伝ってくれるかな。」
「あ、うん。」
「掃除機取って来る。」
「柚木、オレは?」
「お前は当然だろうが。」

わたしには優しいのに、ヤスヒコ、否、男子生徒には、まるで別人の柚木さん。

「ヤスヒコ。」

後ろに在るロッカーから掃除機を出そうとしている柚木さんには、聞こえない様に。
しゃがんで破片を集めるヤスヒコの、耳元で問った。

「柚木さんて、いつもあんな感じ?」
「あんなって?」
「男には厳しいというか。」
「・・・確かに。」

そういう反応をするという事は、
ヤスヒコにとっても、柚木さんはぼんやりとした意識の中の人でしかないのかな。
まぁ、ヤスヒコって、あんまり女子生徒と話さないタイプだし・・・。

「見てると、女子より、男とよく話してるよ。 愛情の裏返しなんじゃないの。」
「愛情?」
「話し辛いのかもな、女子とは。」
「ああ。」

柚木さんがこっちに戻ってくるのを見て、わたしは話に、曖昧なピリオドを打った。
最近壊れた古い掃除機に替わって与えられた、真新しい掃除機。
それを担ぎながら、ニヤリと柚木さんは笑っている。

「軽い上にコードレス。 良いな、コレ。」
「オレが使おう!」
「河東さん。」
「あ・・・りがとう。」

あっさりと掃除機がわたしに渡ってしまう傍で、ヤスヒコが吠える。

「何でそうなるんだよ!」
「苦を選べ。 元凶が。」
「な・ん・だ・とぉ!!?」

「止めなって! 掃除機位で、ヤスヒコ!」


                 第一話(前編)、完(