ラタトゥイユとマティスのこと
先日のランチの前菜には、ラタトゥイユにカリカリベーコンとポーチドエッグをのせたものを。
器はマティスのダンスを意識して。
マティスの研究をしようと、文献を読み進めるうちに、どんどん離れていくことに気がついて高嶺の花すぎて全くわからない。
でも、身近にしたくて、お皿にうつしてみようと。
金彩の筆跡をつけずにのせるにはどうしたらいいものかと思っていたら、偶然知り合った方が陶芸の先生。ということでアドバイスをしていただいたのでした。
白マットでも、釉薬丁寧にかけないと厚みが違ってしまうのね。
そして、金が薄く、少しでもはみ出ると紫色になってしまうのね。
マティスが好きすぎて、留学中にその足跡をたどってみたことがあります。
南仏では画家たちが生きる喜びのようなものを描いていることが多くて、
その理由がとってもよくわかりました。
だって、強い日差しのもと、くよくよしたり考えているほうがナンセンスに思えてしまうのだもの。
感覚のままでいれば、自分の生命力の強さを思い出して
それが溢れ出して表現につながっていったのかもね。
肌寒くなってきたから、そろそろコートダジュールでラタトゥイユが食べたい。
器はマティスのダンスを意識して。
マティスの研究をしようと、文献を読み進めるうちに、どんどん離れていくことに気がついて高嶺の花すぎて全くわからない。
でも、身近にしたくて、お皿にうつしてみようと。
金彩の筆跡をつけずにのせるにはどうしたらいいものかと思っていたら、偶然知り合った方が陶芸の先生。ということでアドバイスをしていただいたのでした。
白マットでも、釉薬丁寧にかけないと厚みが違ってしまうのね。
そして、金が薄く、少しでもはみ出ると紫色になってしまうのね。
マティスが好きすぎて、留学中にその足跡をたどってみたことがあります。
南仏では画家たちが生きる喜びのようなものを描いていることが多くて、
その理由がとってもよくわかりました。
だって、強い日差しのもと、くよくよしたり考えているほうがナンセンスに思えてしまうのだもの。
感覚のままでいれば、自分の生命力の強さを思い出して
それが溢れ出して表現につながっていったのかもね。
肌寒くなってきたから、そろそろコートダジュールでラタトゥイユが食べたい。