ルート[rou':t] 展にて「ルート」について相当議論しました。
はじめは川口ルーツプロジェクトとか言ってましたが、路地に着目し、ルートという言葉に注目し、、、
相田さんがMLで書いていた…辞書で詳しく調べてみたところ、rootには祖先が生まれ育った土地との文化的・感情的結びつき、所属感も含まれるようです…という所にものすごく刺激を受けました。

自分のrootはどこにあるのかと。

祖先が生まれ育った土地との文化的、感情的結びつき、所属感、、、

私のrootはKOREAにあるのだと学校で教わり、
自分の生い立ちや民族、国について考えて来たつもりでした。
過去に自分の国を植民地にしていた日本に生まれ住むKOREANの私。
まあ、実際私のrootはKOREAなのですが。
たとえ生まれた場所は日本であったとしても、私の国は、、、
おっと、一つじゃないのでどう言っていいものやら。

今回のrootで考えた事は川口のrootについても考えながら
自分自身、私の根っこはどこにあるのか。
私のrootは川口にあるのかという事。

私はなぜ、川口が好きなんだろう?

やはり感情的結びつき、所属感があるから。
祖父、祖母が故郷から移り住み、家を持ち、
、、、いつしか私が生まれた。
川口で育った。
思い出がそこかしこにある。

それよりも「好き」という感じが「感情的結びつき」なのだろう。

川口に私のrootは「ある」のだ。

でも、私の根っこ「root」はどんなもんなんだ?とイメージしたとき、
私の根っこは土から抜けてしまっていて、むき出しでした。
わずかに繋がるひげのような根っこで必死に土の養分を吸い取ろうともがいていました。
ですが、土から抜けてしまっている分、根っこの存在を常に見る事が出来ます。
その姿を見ながら

抜いてしまうか、

さらに根を伸ばすか、

と、考えることができる。

、、、そんな自分と自分の根っこの状況を考えるきっかけを作ってくれました。

川口を考えながら、未だ行った事の無い故郷を思うのです。
同じ状況に直面しているであろう世界のどこかの「誰か」の故郷を考えるのです。

そんな思索を巡らす為のきっかけとしての展示。
徹底的に考え、イメージし倒す事が、それを伝えるのがアートなら、
まだまだ始まったばかり。

ボランタリズムの現代的定義が先駆性、補完性、自己実現性ならば
国際環境アートムーブ川口が関わる事になった今回の展示は
「まち」を思索する始まりとしてrouteを作った。
意義があるものになったと言えるでしょう。

ヒサヨシさんの関わった一人の「川口人」の記録に意味があると感じます。

相田ちひろの今の景色と過去の意識を縫うのに意義があると思います。

福島佳奈のツタは根っこが滅びる前に伸びて来た最後の建物の「護り」でしょうか。

私は「川口ジャイロ」の「装置」を作るため、これからも考えます。

川口は有数の外国籍市民の多住地域、多文化共生都市ですってね。
なら日本人じゃないKorean residents in Japanな私も
日本人がめんどくさくて考えない事、
もういいかとあきらめてしまいそうな事に
少しは出しゃばっちゃってもいいんでしょう?

私はむき出しな根っこで微かな所属感を頼りに自由に考えていきますよ。