芸術家の説明責任という考え方も面白い議論かもしれません。



表現すべき事全てを作品に込めたつもりの作家にとって、改めて作品について喋らされる事はある意味ナンセンスでしょう。

しかし、難解に見える作品に対し「この作品は何を意味してるんですか?」というありがちな質問にギャラリーのスタッフさんも困ってしまう事も、ままありがちな事です。


それでは、


「あなたの顔について質問があります。何故そんな顔なんですか?」


…もしもこう聞かれたら、あなたはどう答えますか?


「イヤーそう聞かれても」
「別に。ご覧の通りですよむかっ
「失敬なリポーターだな」
「殴るぞ」


でもお化粧や髪型の話なら、大いに盛り上がるでしょう。

「その口紅可愛い色。どこで買ったの?」

という質問に気を悪くしたり、回答不能に陥って難渋する人は普通いません。





社会に対し強く主張すべく構築された作品であれば、コンセプトを説明する事は可能であるはずだし、無論そうすべきです。
マスメディアに触れた場合は特にそうです。
一度社会に提示された作品が、その意味を説明できないのでは、存在意義を疑われてしまいます。
特に現代美術では、メディアの発達も手伝い、作家が直に発言する機会は増しています。
むしろ迫られていると言うべきでしょうか。

だけど…

「彼女、キミの鼻ってさ、何かを暗示してる?
「殴るぞ」



道路標識や地図記号のような「意味」をアートが持つ(持てる)ようになったのは、20世紀になってから発達したポップアートと呼ばれる新しい芸術です。しかし原始の昔からアートは存在したわけで、アートに「意味」をくっつけるようになったのは、誤解を恐れずに言えば最近のことです。

それなのに、さほどアートに造詣の深くない人でもアートに「意味」を求め、納得のいくエクスキューズが与えられないと難渋するというのは、現代美術の意外な浸透力を表しているようで不思議です。





一方、作品や自分について語る事を拒否して「沈黙の作家」等と呼ばれる人達がいます。デュシャンやピンチョンが例と言えるでしょうか。


「私の作品を見れば全てわかるはずだ。後は言わなくてもわかるだろう」という態度は傲慢でしょうが、相手を納得させるためだけのエクスキューズを使っていないとも言えます。



自作に対し雄弁な作家と、口の重い作家。

しかし沈黙が雄弁である事もあります。

結果としての作品だけでなく、作家自身の態度やスタンスの取り方にも注目すれば、作品への理解を深める面白い手掛かりになるでしょう。



以上、アーティストトークでおろおろするKaolyを見て考えました。



川口市立アートギャラリー・アトリア
「川口の新人たち」展
3月16日(日)まで
10:00~18:00 月曜休館