はっきり言って仕事をしつづけなければいけない現状なのに哲学することをやめられずの哲学中毒な私です。


ただ、今回は今までの「謎」を解明できるひとつのヒントまでたどりつくことができました。


それは「人の存在」についてです。


いろいろな人と関わっているといろいろな「不自然」を感覚的に感じていたのですが、それがなんなのかが分かりませんでした。ようやくそれが少し分かりました。「許し、許される」の両面を持っているか、それともどちらかしか持っていないか。ということでした。


社会構造から言ってだいたい人間は、「許す側」と「許される側」のどちらかに区別されているのかもしれません。言い換えれば「勝ち組み・負け組み」みたいな考え方でしょうか。


ただ、もし人の上に人を作らないで「宇宙を作ったなにか」(神?)がいたとするとそんな勝ち組・負け組みたいな幼稚な仕組みは作らないと予想します。

逆に言えば「勝ったり負けたり」を経験する仕組みを作ることでしょう。


ただ、人間社会は違います。はっきりと「許す側」「許される側」を作ってしまいました。人間社会の中で「神のような人間」(許す人間)と「裁かれる側の人間」(許される人間)をつくっています。

見えづらいことなのですが、これがあることが分かりました。


何かの事柄がある時、だいたい「許すこと、許されること」のどちらかの立場になります。ですが、本質はいつも「許し、許される」ということなのだと思います。


私の偏見の中の偏った宗教のイメージでは「お許しください」と人間が神に許しを乞うイメージがあります。神は果たしてそんなに「許したい存在」なのでしょうか。おそらくこれは人が勝手に作った神です。


おそらく本質は「許し、許される」のだと思います。


そうするといかにも上に立つ人間というのは安易に「許す存在」のように君臨したがり、間違ってしまって卑屈になるとなんでも「お許しください」という人間も作られてしまいます。


そうではないと思います。すべての人間が「許し、許される存在」なのだと思います。


そうだとすると、もし自分が「許す立場」だったとしても「許される側」の事を考えるし、「許される立場」だったとしても「許す側」のことを自分のこととして考えられるのではないでしょうか。


これは私自身にも言える事で、自分を責めすぎないということでもあると共に、他人を責めすぎないということ、


「相手を許さない」ということは「自分を許さない」ということでもあるのだと思います。


逆に、「許しを乞う」などという行為も「自分を見失う行為」です。もしあたかも偉そうな事を言っている人間が「許す、許さない」の与奪権のようなものをちらつかせていたらそれは危険な行為です。


だいたい、ほとんどの怪しい宗教、企業は、トップが下々の者に「許す、許さない」のような与奪権を持っている傾向がありますよね。これは私が証明しなくても理解していただけると思います。


では、「許し、許される」存在として生きるにはどうしたらよいのだろう。と考えるともっと哲学しないと見えてきません。


逆に言える事としては、「許せないと思うようなことはなるべく早めに許してしまったほうが自分として成長できる」ということと、


「許されないことをしてしまった」というような時でもそんなに卑屈にならずに「人間は許したり、許されたりする存在なのだから極端には考えすぎない」という気持ちでいる方が成長できるのかな。と思いました。


「じゃあ殺人してもそれでよいのか?」というつっこみが来そうですが、これについては多くは述べませんが、「何が殺人で何が殺人じゃないのか」という問いを投げかけたいと思います。


ナイフで心臓を刺すことだけが殺人なのでしょうか。その人の個性を殺すかのように「許す許さない」を偉そうに叩きつけてその人の人生を束縛するような行為は殺人なのでしょうか?それとも違うのでしょうか。


多かれ少なかれ人間は生きているうちに一度は「精神的な殺し」を行なっているような気がします。

法的には肉体の殺しだけが裁かれているだけですよね。


そう考えるだけでも「自分は許される存在だ。」ということにもなるし、精神的に殺されるようなことも経験したことがあるので、私は私の精神を殺した人に対して「許す」必要があるのだと思いました。


長く書いてしまいましたが、「人間は殺しもしているし、殺されもしている」ということかもしれません。

そうした時、どう裁くのでしょうか。


私は裁くのではなく「どちらも受け入れる」ということが必要なのかなと思いました。


表現が下手で申し訳ありませんが、このことに関しては多くのコメントいただけるととても参考になります。