死ぬまでの暇つぶし。←とふと頭の中にコトバがよぎる。


なのか?


どう暇をつぶすのか人それぞれだけど、それってどうなんでしょうね。









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私は人生の中でなぜか親切をした人に裏切られるような体験をよく体験します。これでもかという程に。 なんでなのかは分からないけどおそらくなにかのメッセージなのでしょうね。 そのメッセージに対して私は同じ反応をしてしまい、それが正解でないから何度も同じメッセージを受け取らなくてはいけない。みたいな。 必然とは行っても自分が親切にした人に裏切られるという行為を素直に感謝できません。やはり人間なのでムカっときてしまうし、叩きのめしたくなってしまいます。 ただ、そういう人たちって普通そういう事をしなさそうな人がするので、これは「やらされてるんだろうな、霊的な何かに」と思うようになってきました。 そうするとひとつ予想できることは私には道があるのに、気づかないからいろいろなものに手を出してしまう。そうするとそういう人たちが裏切り、奪っていくことで私の道は結果としてそこしかなくなっている。つまり導き出されたということなのかもしれないなと。 「そんなことしてる場合じゃないよ、ちゃんと道を進みなさい」ってことなのかもしれません。 寄り道大好き人間なのかもしれませんね。
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何か苦しかったり、嫌な事があったりするときってありませんか? 最近、ひとつの予想を立てたのですが、そういう時って「何かを隠している時」なのではないかと思います。

裏世界から魂的なシグナルとして「表現しなさい」と促されているのかもしれません。 「自分はこんな事で苦しんでいる」「自分は本当はこうなんだ」と外に吐き出してみてください。

おそらく解消されるような気がします。
でも、「こんなこと他人は分かってくれないよな。。。」と思い一人で抱えてしまう。それは誰でも思うことなのかもしれません。逆に他人なんて自分の事を理解するかは分かりません。

他人に理解してもらうという事が重要なのではなく、「吐き出す」ということが重要だと思います。吐き出したらどうなるかというと、「入ってくる」んです。新しい何かが。呼吸と同じです。

つまり、苦しかったのは入れ込んだものを吐き出さないから便秘状態になってしまっているということです。 苦しくなかったとしても隠してたものを吐き出すと、次に進めます。

私事ですが、人生で一度も吐き出さなかった悩みを思い切って吐き出してみたら物凄くスッキリして次の課題に取りかかれそうな気がしています。相手が理解してくれたかどうかは別ですけど。吐き出した事で自分の内面がスッキリしました。

ただ、吐き出す前は自分のまわりの何か(霊なのかなんなのかは知りませんが)やたらそれを吐き出すように仕向けてきました。ちなみに私はオバケとかはまったく見えません。「生きている時の少し不自然というか偶然起こるような結果」を結構私はスピリチュアルなメッセージなんじゃないかと思い、そのたいしたことのなさそうな日常の偶然を勝手にスピリチュアルメッセージだと思い解読に入ったりします。

あまりにも哲学するとそれがなんなのか分かってきたりします。で、今回はこの誰にも話したことのない悩みを吐き出さないと次に進めないというメッセージなのだろうなということが分かりました。やっぱり吐き出したら自分が変わりました。そして自分が何者であるかにもう一歩近づけたような気もします。

次回は私の「日常のありきたりな出来事からスピリチュアルメッセージを読み取る」そのやり方についてでも話そうかなと。(汗)かなりアホっぽいけど面白いですよ。霊感なくてもできますんで。

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自己表現

テーマ:
みなさんはどうやって「自己表現」をしていますか。私は自分の活動をしていることで自己表現をしているつもりになっていました。実際は自分の本心にある哲学を表に表現できていない自分がいました。それには気付いていたのですが、なかなか表現する勇気が湧きませんでした。 ただ、世の中の必然性なのか、どうしても自己表現したくてしょうがないというか、もう我慢できなくなる流れになってしまいました。 たしかに、本心での自己表現は逃げ道もなくまわりの人たちに非難された時、どうしようもなくなります。でも、それでよいのではないかと思いました。まわりの評価よりも自己表現することでより自分がなにものであるのかが見えてくれば、結果がどうなったとしても、その結果こそが必然だったのだということだろうし。 皆さんも自己表現してみてください。

何を「ベスト」とするのか。

テーマ:

生きていて「ベスト」をつくしたい。そう思うことは多々あります。こういう状況でのベスト?こういう時は?


だけどその自分の思い描く「理想のベスト」とはまったく異なる結果の事って多いはずです。そうすると理想と食い違うから「ベストじゃない」ということになるのでしょうか。


逆にその「結果」以上も以下もないのでは?つまり「結果がベスト」なのではないかと思います。


もちろん、結果が出る前は自分なりの「理想のベスト」を追求すべきなのではとも思いますが、何が大切かと言うとその「結果」に対して「なぜこの結果が今の私にとってベストなのか?」を考え、


「結果」 今の私にとってベスト(これ以上もこれいかもない)


という「結果のベスト」から逆算をするかのように今の自分が何者であるのか、何を学ぶべきなのか。


を知ることが出来るのではないかなと思ってみたりしてしまいました。






メール

テーマ:
今は、ブログもなかなか賭けない状況なのですが、ある人に送ったメールが哲学できそうな内容なので、載せることにしました。
今日メールをすること自体が嫌がらせなのかとも思いましたが、短めに。
最近やたらアンテナにひっかかるテーマは「利己的」というコトバだと思います。
人間は誰もが利己的であるという事に気付きました。それは私であろうが、森住さんであろうが誰であろうが、「人間である」という事と同じぐらいに利己的であるということが分かりました。
これは悲しい事ではなくて「そうである」と気付けば別に苦しまないし、普通に対処できます。
苦しむのは、「人間は利己的じゃない人もいる」と思い込んで生きることでした。
この「利己的」問題については理解ができました。もうひとつだけ言ってしまうと、人間は「他人が利己的に見え、自分を利己的には見えない生き物」だということです。
それが分かった時、そういう生き物の中での「思いやり」だとか、「人を尊重する心」というのがなんなのか分かりました。
もう少し、心を統率して強くてやさしい人間になりたいと意味不明かもしれませんが、自分自身で反省しました。
結果としては自分の思い通りにならないかもしれません。
もちろん、その結果は見た目にはもしかしたら幸せには見えないかもしれないこともあるかもしれませんが、最善の結果をもたらせてくれると思います。
などと、いう思想だから人に対して何が迷惑なのかが分からない人間なのだと思います。私が。
思い通りにならない人生の方が私は楽しいような気がします。もし、思い通り過ぎたら生きててつまらない。
思い通りになったらそれはそれで楽しいし、ならなかったらならなかったで自分を最大限に成長させてくれる。
人生ってそんなもののような気がします。
だから子ども達に「こっちじゃなければ負けなのよ」なんて気張って、思い通りにならなかった親のほうがいろいろ学べて幸せなのかもしれません。当事者にならない限り人は真剣に考えません。
結果は常に最高なのだと思います。その結果を最高だと思えない今の自分のギャップこそが「未熟」なのかもしれませんね。
相変わらず、最後にはこの類のコトバで締めくくります。私ばかりいろいろ頂いてしまいすみません。皆さんに恩返しがしたくても具体的に何をして良いのかも分かりません。とにかく突っ走る事ぐらいしか出来ず、それがまた迷惑をかけているのか不安にもなります。
自分の一番嫌いなところは、感謝の気持ちを上手に表せないところです。
いつからこんな人間になってしまったのでしょうか。こればっかりは生まれつきかもしれません。

「必然」と「偶然」について

テーマ:

「なんでこんな事をしてしまったんだろう」であるとか、

「もっとこうだったら」とか、結果論で見ると「もっと良い選択肢があったんじゃないか。」と思ってしまうけど、


おそらく、「そのとき選んで経験した事」


が「ベスト」であって、


「それ以上もそれ以下もない」のではないだろうか。


もし、反省して後悔したなら、次の機会でそうやってみればよいのかも。


と、昨日 人と話していて思った。


それは「今を生きていないんだな」という気付きでもあり、「今を生きよう」と思いました。

やり直すことは出来ないのだから。


仕事が日々、忙しく哲学病も逃げていくほどハードです。。。ようやくブログが賭けます。幸せです。


先日、スマステーションという番組で「藤山かんび」さんという伝説の喜劇役者の方を取り上げていました。


そこで印象に残ったのは、


「仕事をしていると毒殺したいと思うぐらい嫌な人間が現れる。だけどそういう人がいるから自分が成長できるんや。好きな人間や、ただ褒めてくれるだけの人間は何にも自分を成長なんてさせてくれない。」


みたいなことを言っていました。本当にそうだと思います。


自分が嫌いだと思うような人間がいるからこそ、いろいろなことを考え、自分だったらどうするか、であったり、あいつに文句を言われないさらに上の人間になるには。と、いうようなことを真剣に考えるのではないでしょうか。


私も会社員だった時に毒殺までは思わなかったけど本当に嫌な上司がいて、その人間に嫌がらせを受けないために仕事を頑張ったりもしましたし、現在の自分の仕事でもすんなり受け入れられているような世の中であれば私の前にとっくに誰かが成功者として君臨していただろうし、私も興味関心を示さなかったかもしれません。


自分が嫌だと思う人は自分の目の前にそびえる「課題の山」なのかもしれません。立ち向かい、その山を征服した時こそ、自分自身の真の成長を感じることが出来るのかなと、ふと思いました。



 はっきり言って仕事をしつづけなければいけない現状なのに哲学することをやめられずの哲学中毒な私です。


ただ、今回は今までの「謎」を解明できるひとつのヒントまでたどりつくことができました。


それは「人の存在」についてです。


いろいろな人と関わっているといろいろな「不自然」を感覚的に感じていたのですが、それがなんなのかが分かりませんでした。ようやくそれが少し分かりました。「許し、許される」の両面を持っているか、それともどちらかしか持っていないか。ということでした。


社会構造から言ってだいたい人間は、「許す側」と「許される側」のどちらかに区別されているのかもしれません。言い換えれば「勝ち組み・負け組み」みたいな考え方でしょうか。


ただ、もし人の上に人を作らないで「宇宙を作ったなにか」(神?)がいたとするとそんな勝ち組・負け組みたいな幼稚な仕組みは作らないと予想します。

逆に言えば「勝ったり負けたり」を経験する仕組みを作ることでしょう。


ただ、人間社会は違います。はっきりと「許す側」「許される側」を作ってしまいました。人間社会の中で「神のような人間」(許す人間)と「裁かれる側の人間」(許される人間)をつくっています。

見えづらいことなのですが、これがあることが分かりました。


何かの事柄がある時、だいたい「許すこと、許されること」のどちらかの立場になります。ですが、本質はいつも「許し、許される」ということなのだと思います。


私の偏見の中の偏った宗教のイメージでは「お許しください」と人間が神に許しを乞うイメージがあります。神は果たしてそんなに「許したい存在」なのでしょうか。おそらくこれは人が勝手に作った神です。


おそらく本質は「許し、許される」のだと思います。


そうするといかにも上に立つ人間というのは安易に「許す存在」のように君臨したがり、間違ってしまって卑屈になるとなんでも「お許しください」という人間も作られてしまいます。


そうではないと思います。すべての人間が「許し、許される存在」なのだと思います。


そうだとすると、もし自分が「許す立場」だったとしても「許される側」の事を考えるし、「許される立場」だったとしても「許す側」のことを自分のこととして考えられるのではないでしょうか。


これは私自身にも言える事で、自分を責めすぎないということでもあると共に、他人を責めすぎないということ、


「相手を許さない」ということは「自分を許さない」ということでもあるのだと思います。


逆に、「許しを乞う」などという行為も「自分を見失う行為」です。もしあたかも偉そうな事を言っている人間が「許す、許さない」の与奪権のようなものをちらつかせていたらそれは危険な行為です。


だいたい、ほとんどの怪しい宗教、企業は、トップが下々の者に「許す、許さない」のような与奪権を持っている傾向がありますよね。これは私が証明しなくても理解していただけると思います。


では、「許し、許される」存在として生きるにはどうしたらよいのだろう。と考えるともっと哲学しないと見えてきません。


逆に言える事としては、「許せないと思うようなことはなるべく早めに許してしまったほうが自分として成長できる」ということと、


「許されないことをしてしまった」というような時でもそんなに卑屈にならずに「人間は許したり、許されたりする存在なのだから極端には考えすぎない」という気持ちでいる方が成長できるのかな。と思いました。


「じゃあ殺人してもそれでよいのか?」というつっこみが来そうですが、これについては多くは述べませんが、「何が殺人で何が殺人じゃないのか」という問いを投げかけたいと思います。


ナイフで心臓を刺すことだけが殺人なのでしょうか。その人の個性を殺すかのように「許す許さない」を偉そうに叩きつけてその人の人生を束縛するような行為は殺人なのでしょうか?それとも違うのでしょうか。


多かれ少なかれ人間は生きているうちに一度は「精神的な殺し」を行なっているような気がします。

法的には肉体の殺しだけが裁かれているだけですよね。


そう考えるだけでも「自分は許される存在だ。」ということにもなるし、精神的に殺されるようなことも経験したことがあるので、私は私の精神を殺した人に対して「許す」必要があるのだと思いました。


長く書いてしまいましたが、「人間は殺しもしているし、殺されもしている」ということかもしれません。

そうした時、どう裁くのでしょうか。


私は裁くのではなく「どちらも受け入れる」ということが必要なのかなと思いました。


表現が下手で申し訳ありませんが、このことに関しては多くのコメントいただけるととても参考になります。




「影響」について

テーマ:

人って「オリジナリティ」といったところで純粋なオリジナリティによるものってなかなか少ないと思います。なんらかの「影響」を受けた中での「オリジナル」だとすると、やっぱり「伝わる」んじゃないか。


服のセンスだったり、好きな音楽のジャンルとか、本の作者、考え方、これも多かれ少なかれ影響を与えているということですね。


どちらかというと、「影響を受ける側」がどう受信するかを気をつけないといけないのでしょうね。


と、思ったのは私の聞いている音楽について。なんで今こんな曲好きで聞いているんだろう、いつからだ?誰の影響だ?などと考えたからです。


今は、確かに好きだけどなんでこういう音楽が好きだったかも分からないし、私はダウンタウンの松本人志が好きなのですが、なんであの人の笑いが好きなのかもよく分からないし、そんな事たちを考えると「今の自分はどうやって形成されたんだ?」と疑問に思うようになってしまいました。


自分の事って「自分なんだから」あんまり疑問に思わずそれとなしに生きてしまっていますが、それ以外の自分ではなく今の自分としてそこにいるという確率を考えてみると、やはり「奇跡」の領域なのだと思います。


「自分探し」は「幸せ探し」と書いたけどそれと共に、「自分探し」は「自分見つめ」でもあるのだなとふと思いました。