『論語』と言えば、孔子の言葉をまとめたもので、中国ばかりでなく、我が国でも長く読まれている精神修養の書としては屈指のものです。

 私も学校の教科書で学び、社会に出てもおりに触れて、読む機会がありました。私の知り合いでも、『論語』に親しんでいる人も少なくなく、座右の書にしている人もいるほどです。

 

 2000年以上も前に編纂され、我が国でも広く読まれている本としては屈指のものでしょう。これを「奴隷の書」と言うのは、世に憚られるところですが、これは何も私が言っていることではありません。

 

 このような世を敵にまわすことも厭わないことをおっしゃっているのは、有名な脳科学者の苫米地英人博士です。

 

 私もこのような言説を初めて目にしたものですから、いったいどんなことをおっしゃっているのか興味がありました。

 

 言うまでもなく、孔子は、釈迦やキリストと並び称される世界の四聖の一人です(ちなみに、あと一人はソクラテスです)。その人の言葉を捕まえて「奴隷の書」とは何事かと思われる人もおられると思います。

 

 苫米地博士の言うことには、釈迦もキリストも人類の平等ということを説いているが、孔子は違うというのです。

 

 苫米地博士によれば、『論語』の本質的な役割というのは、「権力者が民衆を支配できるように洗脳する」ことであると言うのです。

 『論語』には一見、人の道や世界の平和ということを謳っているようだか、実はさりげなく、「支配の論理」が貫徹されているというのです。

 

 たとえば、論語里仁第四の十五に「子曰く、参、吾が道は一以て之を貫く、と。曾子曰く、唯、と。子出づ。門人問うて曰く、何の謂いぞや、と。曾子曰く、夫子の道は、忠恕のみ、と」という一節があります。

 

 この意味というのは、「弟子の参(曾のこと)よ、私(孔子のこと)の人生は一つの道を貫いてきた」と。弟子は「その通りです」と答える。孔子が退出すると、他の弟子が曾に対して「どういうことですか」と尋ねた。すると、曾は言った。「先生の人生は忠恕に尽きるものだ」と。

 

 ここで問題になるのは「忠恕」の意味です。「恕」とは、シャーマン(巫女)の執り行う儀式のこと。忠恕とは、男性のシャーマン、すなわち孔子の言葉という意味になります。実際、孔子はシャーマンとしての儀式を受けた呪術師だという説があります。つまり、男性のシャーマン、すなわち孔子なり帝王といった、特別な儀式を受けた者の言葉は絶対だから、聞かねばならない、と言う意味になるといいます。

 

 我が国も長いこと『論語』の洗脳に毒されているといいます。

 

 例えば、3.11の東日本大震災の時に、日本人はパニックに陥らず、被災地でも秩序正しく行動して、暴動や混乱が起きなかったことに世界から絶賛の嵐がありました。しかし、実は、日本人の精神性が高いところから起きた現象ではなく、「支配の論理」に完璧に洗脳されているために、暴動や略奪が起こらなかったというのです。

 

 実際に福島の原発は、いまだ終息を迎えていません。放射能や汚染水は垂れ流しの状態が今も続いています。しかし、この危険な状態を止めようともしない、政府、政治家、官僚、地元の権力者は、この危険な状態に一顧だにせずに、利権による私服を肥やしています。そして、それらに唯々諾々としているのが、我が国のマスコミであり、国民なのです。これは、見事な『論語』による洗脳とは言えないでしょうか。

 

 私は容易な判断は控えようと思いますが、このような問題提起された苫米地博士には敬意を表したいと思います。ただ、教えられたことを丸のみしないで、自分の頭で考えることは必須であると思います。