この「高尾山古墳」が、渋滞を緩和する為の道路整備に伴い、取り壊しの危機にさらされているというのです。
え?利便性と国の最重要遺跡を計りにかけて、利便性を取るのですか??
これは、チョット待って!!とするべき問題です。
しかし、こんな大事な話が意外にも広く知らされていない事も問題なのです。沼津市だけの課題ではないと感じました。
沼津市は、発掘調査で墳丘や周溝を掘り起こし、土器を取り出して丘を削った後、そこを更地にし、都市計画道路「沼津南一色線」を通そうとしています。
保存するか撤去するかの検討が進められていた高尾山古墳について、市は古墳を避けるように道路を建設する方法を検討してはみましたが、昨年12月に「古墳を保存して道路を建設することは道路の構造上難しい」という結果を出しています。
それを踏まえて、道路建設を前提に古墳の大部分を取り壊す発掘調査を行う方針を明らかにしたのが5月の25日だったのです。
これに対し、日本考古学協会は、同25日に都内で会見を開き、道路建設工事の見直しと古墳の保存を求めましたが、同協会は3年前にも同内容の要望書を文化庁、静岡県、沼津市などに既に提出していました。
協会の高倉洋彰会長は、高尾山古墳が三世紀では国内屈指の大きさで、多様な副葬品が出土したことを挙げ、
「古墳の主は近畿の最初期古墳と肩を並べる駿河の最有力首長と考えられる。」また、「高尾山古墳は、日本列島における古墳文化形成を解明する上できわめて重要。駿河の古墳時代最初頭の重要遺跡で、歴史・文化的重要性を知る起点」と述べ、道路建設事業の見直しを強く求める会長声明を発表しています。
(↑参考 : 中日新聞より)
そもそも、この「高尾山古墳」が発見されたのは、道路建設に伴う発掘調査の結果だったようです。
不自然に切り立った高台に「高尾山穂見神社」と「熊野神社」があり、地元ではいつのころからか神社の下には古墳があるのではないか、と語り伝えられていたそうです。
ふたつの神社を移設したところ、その下から古墳が出て来たのでした。
高尾山古墳は「前方後方墳」で、本体の大きさは62メートルと古墳出現期としては屈指の規模なのです。
前方部、後方部ともに31メートルで、他の前方後方墳と比べ前方部がよく発達しているのが特徴だそうです。
棺の底と考えられる場所には首から胸の辺りにかけてと、足元辺りに大量の水銀朱がまかれており、朱は当時極めて貴重であった事から、被葬者が社会的、経済的に圧倒的な地位にいたことを示していました。
研究者によって造営時期の見解に隔たりはあるものの、沼津市教育委員会は高尾山古墳の築造は230年ごろ、そして250年ごろに埋葬との調査結果を昨年公表しています。
高尾山古墳の築造が230年ごろだとすると、卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の『箸墓古墳』のような前方後円墳が築造されるより以前に、東海地方で独自に古墳が造られたことになるので、この古墳の存在は非常に大きいのです。
250年ごろからは、初期のヤマト政権が作成した設計規格に沿って墳墓が造営されていく時代となります。
こんな重要な意味のある古墳を、都市計画道路の建設工事を再開し、取り壊してしまって良いのでしょうか。
(↑参考 : 日経新聞より)
『初期古墳壊すのか』磯出道文氏
卑弥呼は、その人物を常に意識していたであろう。
卑弥呼の御殿では、その人物が東国に巨大な墓を築いていたことも話題になっていたに違いない。
「そうですよね」と、その古墳を発掘した考古学研究者に水をむけたら「当然です」と確信に満ちた表情でうなずいた。
私は静岡県沼津市にある高尾山古墳を訪れた。
それは途方もない古墳。卑弥呼とまったく同世代の珍しい「初期古墳」なのだ。
市によれば、西暦230年頃に築造され、250年頃に埋葬されたものだった。
全長が62メートル。破格の大きさ。
卑弥呼時代の東国最大の古墳だ。東海道をおさえるようにドッカリとある。
卑弥呼のライバルともいうべき東国の王の墳丘であるのは間違いない。
『魏志倭人伝』に「女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼ともとより和せず」とある。
卑弥呼と戦っていた狗奴国の男王・卑弥弓呼の古墳の可能性も否定できない。
なぜなら、この古墳の墳丘や堀からは、北陸~滋賀~浜松地方など広い範囲から運ばれてきた外来土器が大量に出た。
卑弥呼がいた可能性のある畿内を東側から包囲する地域の人々が集まって、この古墳を築造し、墳丘上でお祭りをした生々しい形跡が出てきたのだ。
この古墳は富士山麓にあり、火山灰の酸で、葬られた王の骨は土中で溶けてなくなっていた。
だが、おしゃれに興味のない無骨なリアリストの武人であったことがわかる。
遺体の頭部には割られた銅鏡、胸には小さな勾玉が一つ。長大な刃渡りの鉄槍を右手にして葬られていた。
槍は人を突き殺すとき、すぐ抜けるよう工夫された実践的なもの。足元には生前に率いていた軍団長が一つずつ供えたのか、矢じりが32個かためて置いてあった。
西洋で古代ローマが栄えていた頃、日本では「初期古墳」をつくることで地域ごとに「初めての国家」が生まれた。
日本人が国家を最初にもった時の資料であり、記念碑的遺跡だから、初期古墳は特に価値が高い。
◆卑弥呼の親世代の巨大墳丘墓・楯築遺跡(岡山)。
◆卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳(奈良)。
◆邪馬台国の大臣や将軍たちの墓ともいわれる纏向の五つの古墳(奈良)。
◆卑弥呼時代の東国最大の古墳であるこの高尾山古墳。
この四つは卑弥呼時代の重要遺跡だ。
都市計画の変更や廃止となると、国からの補助金にも影響する。用地の再取得や補助金返還もありうる。それで破壊するというのだ。
私は「ちょっと待ってくれ」といっている。
私も遺跡の上の家で育ったから地元の不便はわかる。
しかし人間の品格はやせ我慢に宿る。
「不便だがこれは日本国家誕生時の重要遺跡。それが沼津にあるのは地域の誇りだから」と子どもたちに語れる品格があっていい。
高尾山は壊せる古墳ではない。
壊せば祟られるとはいわないが、恥だ。
「あの時の沼津の人と市長は偉かった」と後世に語りつがれる決断をしたほうがいい。
国も特殊な事情を勘案してほしいと思う。
<転載終わり>
沼津市議会議員山下ふみこさんのブログより抜粋↓
この墓は東の最端・駿河国の首長であり、西の卑弥呼の存在を意識して、まだ亡くなっていないのに、国の威容を示すためにこの古墳を築造したと言われているようです。
卑弥呼もこの首長を意識していたのは間違いないようです。
そんな日本国民の大事な宝の一大事が起きています。
1800年もの時空を超えて駿河国の王の墓が残されてきたのに、今、この古墳が消えてなくなろうとしている。
私はこの古墳の無関心の一人だった。
今、猛烈に反省している。猛烈に反省して反省して反省してやっぱりこの問題に背を向けてはいけないと思うようになった。
私には想像を絶する大きな東国の王の遺跡。
1800年も誰の目にも触れられずにそっと神社の下に眠り続けてきたのに、道路を作る為に移転した神社の跡地からこの偉大な王のお墓が見つかった。
そっとしておけば、きっと誰の目にも触れずにこの古墳は脈々と次世代に日本人のルーツとして続いていたはず。
それが道路を作るという現代人の都合と利便性で壊すとしたら、私たちは余りにも尊大になりすぎてはいないだろうか。
これは「未来への預かりもの」だという謙虚な気持ちで、今改めて、この問題に向き合いたいと私は決心した。
<抜粋終わり>
日本考古学協会の方々や市議会議員さんらが動き、多くの署名が集まる中、17日になって沼津市長が定例会見でこの件について発言したようです。
やみくもに道路建設は強行しない。すぐには古墳を削り取る作業に着手しない、と。
しかし、文化財を残したい人の意見を無視して進むことはないと述べる一方で、保存する場合でも国の指定史跡にならないと残す意味がなく、もう少し研究が必要だとも話していたそうです。
『国の指定史跡』にならないと残す意味がない?いえ、これ程の重要遺跡、残す意味は大ありだと思いますが。
東日本最古にして最大級の『高尾山古墳』のことを日本中の人々にもっと知っていただきましょうよ。
そして、市長さんご希望の『国の指定史跡』にもしてもらいましょう。
なので、こちらの署名サイト↓に引き続き多くの方々のご協力をお願いしたいと思います。
東日本最古・最大級の高尾山古墳を取り壊さないで!
ご賛同下さる方、よろしくお願い申し上げます。
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