「はだしのゲン」を忘れない | misaのブログ

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遊びに来てくださって ありがとうございます!

またしても、私たちは本当に大事な方を亡くしてしまいました。

中沢啓治さんと言っても分からなくても、漫画「はだしのゲン」と聞けばご存知の方が多いと思います。

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その「はだしのゲン」の作者である中沢さん(73)が19日、肺がんのため広島市内の病院で亡くなりました。

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「はだしのゲン」は、中沢さんが広島原爆で被爆した体験を基に描かれています。

中沢さんは、広島市の小学1年生の時、爆心から1.2キロにあった学校の前で被爆しました。

たまたま塀の陰にいたため、奇跡的に助かりましたが、父と姉、弟は自宅の下敷きになって亡くなっているのです。

こちらの作品概要を読むと、中沢さんのこの世でのお役目がよく分かります。

http://www.tomo-corp.com/?page_id=12

★★★

『はだしのゲンが伝えたいこと』

1945年8月6日、中沢啓治さんは広島市内の神崎国民学校(現在の神崎小学校)で被爆する。

国民学校の1年生、6歳だった。 中沢さんは奇跡的に助かったが、父・姉・弟を亡くした。被爆直後に生まれた妹も4ヶ月で亡くなる。

中沢さんは、自身が目撃した広島原爆の惨状を、まるでカメラで撮影するかのように、つぶさに脳裏に焼きつけている。

『はだしのゲン』に表現されている広島の光景は、中沢少年が自ら体験したことを、ゲンに託して描いたものだ。

漫画家として東京での活動が軌道に乗ってきた22歳のとき、広島の原爆病院に7年間入院していた母が亡くなった。

火葬して骨を拾おうとした時、母の骨は粉々に砕け、ほとんど残っていなかった。

「原爆は母の骨までも奪うのか」、怒りがこみ上げた。

それまでは“原爆”という文字を見るのも避け、 自分が被爆者であることも、一切語っていなかった。

被爆者に対する差別があったからだ。

「自分にできることは何なのか」必死に考え続けた結果、 原爆をテーマにした漫画の第1作目となる『黒い雨にうたれて』を1週間で描き上げた。

その後、戦争と原爆を題材とした作品を数多く描いてきた。

『はだしのゲン』は、少年ジャンプの編集長との出会いから1973年から連載が始まり、 途中3度の中断と複数の出版社での連載を経て、1982年に全10巻で完結する。

中沢さんは、『はだしのゲン』のテーマは麦なのだと語る。

「麦は寒い冬に芽を出し、霜柱をおしのけてまっすぐ伸びる。 麦踏みで何度も踏まれながらも大地にしっかりと根をはって、やがて豊かな穂を実らせる。

人間、そういうふうになれよということで、元気のゲン、元素のゲン、人間の元素になれという意味で『はだしのゲン』という名前をつけたんです」。

現在中沢さんの作品の原画は、広島平和記念資料館に収蔵されている。

『はだしのゲン』の巻頭カラーページや単行本の表紙など、色鮮やかな原画の数々。

単色の墨で描かれた『はだしのゲン』の原画には、描いた当時の細かな筆跡やタッチが残っている。

中沢さんの願いは、戦争や核兵器のない未来であり、子供たち自らが平和を追求し続けてほしいということだ。

「それには、漫画がひとつの役割を果たしていると思う。文章だと読みづらい子にも、漫画なら素直に入っていく。

子供達に、素直に戦争反対の気持ちが根付いていったら作者冥利につきる。」

中沢さんが、今回のドキュメンタリー映画に託したメッセージである。

<転載終わり>

ゲンは中沢さんの分身。

「もう黙っていない、自分にできるのは漫画しかない。漫画で原爆をとっちめてやる。」

「私という被写体を通して戦争と核兵器のない世界が少しでも近づけばいい。」これが中沢啓治さんの願いでした。

実は中沢さんは、原爆投下がアメリカの人体実験だった事も分かっていました。

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「原爆を投下する前にすでに、アメリカはわかってたんですよ。あれが、落としたあと、どういう放射能影響が出るかということがわかっていて、それですぐにABCCを比治山の上に建てるわけでしょう。」

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中沢さんのお母様のキミヨさんが、被ばくから21年後に亡くなった時に、中沢さんはさらにとてもショッキングな体験をしています。

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「ABCCが来てね、オフクロの内蔵をくれというんですよ。棺桶の中にいるオフクロの内蔵をくれって。怒ったんですよ。帰れって。

彼らは、広島市を見下ろす比治山の上から、じっと見ているんだ。今日は被爆者の誰が死んだんだ?って。」

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「戦争の長引く苦病を短縮し何百万もの若いアメリカ兵の命を救うために原爆を使用した」とトルーマン大統領は公言していますが、その裏では放射線の調査を命じていたのです。

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そして、その調査結果は全てアメリカに持ち帰り、我が国は内部被曝の実態も不明で、福島にも活かせていません。

これらの事も全て中沢さんは分かっていました。

だから、漫画によって真実を明らかにしようとしていたのです。

児童向けの漫画にこだわってきたのは、未来を作る子供たちにこうした真実を知ってもらい、もう二度と戦争を起こして欲しくないという願いを込めていたのだと思います。

中沢さんは、壮絶な被爆のシーンを描写することに自分自身も苦しみながら、でも「体験した者にしか描けないことがある、それを読者に届けないと本当のことが分からない」と徹底して表現し続けたのです。

過激な描写があるのですが、現実はもっとすごいものだったと思います。

しかし、辛い体験とは裏腹に、中沢さんはとっても明るい人なのです。

中沢さんの少年時代は、お父さんからの「麦のような人間になれ」という言葉を胸に、辛くて泣きたいときにはカラ元気で歌をうたって乗り越えてきたと言います。

だから「はだしのゲン」は私たちへの人生の応援歌でもあるのです。

原爆を語れる方を、またひとり亡くしてしまいました。

私たちは、中沢さんの想いを引継ぎ「はだしのゲン」を永遠に忘れないようにしていきたいと思いました。

中沢啓治さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

お疲れ様でした、中沢さん。

私たちは、この世から絶対に核をなくしていきます。見ていてください。ありがとうございました。