誰も来ない廃園より-CA3G173600010001.jpg


(前回からのつづき)

とはいえ、池田浩士氏の著作そのものは、その題材があるいは「石炭の文学史」であれ、あるいはナチスへの抵抗運動であれ(『抵抗者たち』)、あるいは第三帝国下のドイツ文学であれ(『ファシズムと文学』)、あるいは死刑制度であれ(『死刑の[昭和]史』)、一貫して困難な問題--ファシズム、それへの抵抗--への問いである。

ファシズムという問題を考える--その〈困難〉に真正面から挑んだのが『抵抗者たち--反ナチス運動の記録』(軌跡社、1990年)だ。
タイトルどおり、1933年のナチス政権成立から1945年の敗戦に至るまで、ドイツ国内で展開された様々な立場からの抵抗運動を振り返ったこの一冊を読み終えた時の、何とも言えぬ重苦しい感動は未だに忘れ難い。
社会主義者、共産主義者のみならず、キリスト教信者や学生たち(「白バラ」グループ)、そしてエリート軍人(「ワルキューレ」作戦)……平常時であれば対立すらしていたこれら、主義心情の異なる人々が時に相違を乗り越えて手を結んだ事実は、後世の人間にも厳粛な感動を覚えさせずにはおかない。
(その中でも異色なのは、スポーツ選手による地下ネットワーク。海外遠征に行くたびに、彼の地の抵抗組織と連絡を取っていたという)

本書の中でも白眉と言って間違いないのは、ハンス・ファラダという作家の遺した小説『だれもが一人で死んでいく』を通して描かれた、ある小市民夫婦のあまりにささやかな抵抗を語るくだりだろう。
政治にも体制にも無関心を貫いていた老人が、ひとり息子を戦争で喪う。その悲しみによって目覚めた彼は、ハガキに直筆でナチス打倒を呼びかける文章をしたため、街中に置いてゆく。
そんな極微の抵抗すら、体制は見逃さなかった。老人とその妻は逮捕され、夫は処刑される。
池田浩士氏による部分訳と、粗筋の語りだけでもこの『だれもが一人で死んでいく』という作品の衝撃、胸を揺さぶる感銘は十分に伝わってくる。
この小説の全訳を、ぜひとも日本語で読みたい。


逮捕された後、取調室で警部からその抵抗の行為を「蚊がたった一匹で戦いをいどむようなもん」と言われた、『だれもが一人で死んでいく』の主人公は、しかし確信をもってこう言い返す。
「…たった一人で闘おうが千人で闘おうが、そこに違いはないのです。もしもその一人が自分は闘わねばならないということに気付いたら、共闘者がいようといまいと、闘わずにはいられないのです。わたしはこれからだっていつでもそうするでしょう。ただ、別のやり方で。まったく別のやり方で」

自分の最期を目前にしてのこの言葉に胸震わせるのは、後代の人間にとってもまったく自然な人間的反応だろう。だが、池田氏はこの台詞にこそ、ファシズムとの闘いが必然的に孕む決定的な〈困難〉が表されていると言うのだ。
主人公、オットー・クヴァンゲルは自分の「罪」を告白する。
「わたしの罪は、自分のことをずるがしこいと思い込みすぎて、一人きりでやろうとしたことです。……しかし、わたしがそれをしたやり方、それが間違っていたのだ。だからわたしは、罰を受ける資格がある、そのためになら喜んで死にます……」

「一人であろうが千人であろうが同じだという見解と、一人きりでやったのが誤りだったという反省との間には、矛盾はない。たった一人でも、始めなければならないのだ。しかし、その単独の行為は、常に単独にとどまることを自ら否定するものでなければならないだろう。手を差し出すとき、あるいは一瞥を投げるとき、その手を握りしめまなざしを返すかどうかは、相手の決断にゆだねられている。だが、相手が握り返すことのできる手の差し延べ方、まなざしを返すことのできる一瞥の送り方は、最初に一歩を踏み出す者の責任なのだ」
「オットー・クヴァンゲルは、一歩を踏み出した。だが彼の一歩は、人々をおじけづかせた。それは「陰謀」の匂いを帯びていた。送り手の姿はまったく見えなかった。受け手はそこに罠の危険をかぎつけざるをえなかった」(池田浩士)

つづめて言うなら、「最初に一歩を踏み出す者」には、他者との〈連帯〉を可能とするような「やり方」を為す「責任」があるのだ。
だが、ファシズムという体制の下では特に、この一点に多大な困難が存在する。
なぜならファシズムとは「体制が国民大多数の「合意」によって維持されているか、あるいは少なくともそういう合意によって維持されているという外見をとることに成功している」制度だからだ。
それに抵抗することは、単に政府への反逆のみならず、それを支えている(と見なされる)「国民大多数」への反逆ともイコールになってしまう。

「ファシズムに抵抗するということは、敗北を運命づけられている少数者の闘いを開始するということである。「われわれが敗れたのは、われわれが少数だったからにすぎない」という言葉を、あらかじめ自己の行為に刻印するということである。そればかりではない。ファシズムに抵抗するということは、日々の生活をともにする最も身近な「隣人」たちに抵抗することでさえあるのだ」


最初から「敗北を運命づけられている」闘いとは、実に厳しい。
しかし、池田氏はそれでも「鳥のような顔をした偏屈な男」オットーの「間違っていた」、孤立した闘いにも「可能性」を読み取ろうとする。276通のカードと9通の手紙を見えない受け手に送りつづけた二年あまりの間に、彼は孤独なユダヤ人の老婦人の暮らしを助けていた。そしてオットーを尋問した警部は、その「カードによって改心」した「おそらく唯一の人間」として、自殺するのだ。
「孤立する少数者のほうにこそ、実は、さまざまな「官製」の組織や国家の行事によって一体感を味わう圧倒的多数の〈国民〉よりも、いっそう大きな連帯の可能性が残されているのかもしれないのである」(池田)


『抵抗者たち』に数年先立つ時点で、既に池田浩士氏はこう述べている。
「《国民》の視点からは、けっしてファシズムを撃つことはできないのだ」(※)

(※『ファシズムと文学--ヒトラーを支えた作家たち』(白水社、1978年)、「あとがきにかえて」より)


「国民と非国民の間にはほんの小さな一歩しか存在しなかったこと、両者の間を分けていたのはほとんど取るに足らぬその小さな一歩を踏み出すかどうかの差でしかなかったこと」を伝えてくれる、この『抵抗者たち』の初版が(1980年に)出てから、30数年が経っている。
ますます「さまざまな「官製」の組織や国家の行事」がわれわれを〈国民〉として「一体化」させんとなりふり構わず振る舞い出している中で、池田浩士氏がこの本を閉じるにあたって語る最後の一文は、今なお、否、不断につづく「今」「ここ」を撃つ言葉としての力を失っていない。

「ファシズムは、常に本質的には青少年の問題である。古いファシズムをも含めてあらゆる体験に身をさらしてきた老人たちがついに起ち上がるのは--いま三里塚や反原発運動や各地での地域闘争のなかで日々示されているように--経験乏しい若者たちとの出逢いと連帯によってなのだ。

一九八〇年八月
池田浩士」



2013.2.10.

〈国民〉の祝日(建国記念の日)を前にして