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2012-05-23 23:55:07

ワンコイン試聴室: disc 24.

テーマ:ブログ
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arditti string quartet “luigi nono 1 : fragmente-stille,an diotima / “hay que caminar" sonando"(Montaigne)
【ルイジ・ノーノ『断章-静寂、ディオティーマへ/“進まねばならない"夢みながら』】
500円で購入。

……………

戦後のいわゆる「現代音楽」の分野にも、左翼思想に基づいた社会変革のメッセージを含む作品、そうした活動をした作曲家は少なくない。しかし、世代や状況によってその表し方はだいぶ違ってくる。前回取り上げたハイナー・ゲッベルスとは、親子ほど歳の離れた年長世代のイタリア人、ルイジ・ノーノ(1924-90)の場合はどうか。

彼がブーレーズ、シュトックハウゼンと並んで「ダルムシュタット三羽烏」と呼ばれていたのは有名な話で、つまりはノーノという人が、シェーンベルクやウェーベルンが戦前に開拓した十二音技法をさらに進化発展させていった、ヨーロッパ音楽理論の最前衛に位置する存在だった事を示している。
ちなみに、ノーノの妻はシェーンベルクの娘である。ノーノは文字通り「血縁」に於いても、西欧音楽の「王道」に属していたわけだ。

そしてまた、彼は確固たる共産主義者でもあった。イタリア共産党員だったこともあり、ソ連に比較的自由に入国できた数少ない「西側」の芸術家だった。彼を通して、鉄のカーテンの向こう側(西側)の最新の音楽理論・動向を知ることができたという、ロシア人作曲家も多い。

ノーノは「芸術の革命」と「世界の革命」を同一のものとして実践していた。彼の前期作品には合唱を伴うものが多いが、テクストはロルカやエリュアールの詩であったりレジスタンスの手記であったり、やはり「革命」「抵抗」を主題にしたものが中心。

しかし、そうしたテクストを「分かり易く」聴衆に伝える、という発想はノーノには無い。なにせ、音楽そのものも「革命」されなければならないのだ。
政治的にも美学的にも彼は極めて厳格である。後の世代のようにポピュラー音楽の素材や技法を積極的に引用・模倣する、という方法はまったく採らない(ジャズ、ロック、非西洋の民族音楽などから実にあっけらかんと、ある意味「無節操に」引用しまくるハイナー・ゲッベルスとは大きな違いだ)。
従って、どうしても俗な旋律や和音に馴れてしまった耳には、ノーノの曲は絶望的なまでに理解不能だ。俗化された感性を揺さぶり、覚醒をもたらすという意図に於いてはそれこそが作曲家の戦略なのだが。


このディスクに収められた二曲は、ノーノの生にあっては後期~晩年にあたる作品だ。テクストが歌われることはなく、弦楽四重奏、そして二つのヴァイオリンが終始、かそけき弱音を発している。中断と、突発的な盛り上がりが、長い間を挟んで繰り返されるが、旋律は紡がれず、ただただ音は「響き」それ自体として聴き手に投げ与えられる。
ノーノの晩年は、世界中の誰の目にも明らかになった、社会主義体制の崩壊という事態に重なっている。かつての理想が色あせ、さらには嘲笑され投げ棄てられてゆく中、作曲家は語られた言葉の能弁さに見切りをつけ、音そのものの潜在的な力に、彼自身の言う「ユートピア的」未来の可能性を探ろうとしていたのだろうか。
ノーノがその最後の困難な試み=作品に与えた名が「“進まねばならない"夢みながら」だった。この一文は、スペイン・トレドの修道院の壁に記されていた文に由来する。
“Caminante, no hay caminos, hay que caminar".Sonando.
(歩く人よ、敷かれた道は無い、夢みながら歩かなければならない)

なんとも重い希望だ、と正直思う。だが同時に、全ての「真正な」音楽はどれもみな、すでに常に背負っている希望ではないのか、と思うことも止めることができないでいる。



2012-05-21 23:56:43

ワンコイン試聴室: disc 23.

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Heiner Goebbels “Surrogate Cities"(ECM)
【ハイナー・ゲッベルス『サロゲイト・シティーズ』】
500円で購入。

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篠田昌巳が、亡くなる一ヶ月前に共演したミュージシャンが、このハイナー・ゲッベルスだった。正確に言うと、ゲッベルスは前衛的ロックバンド、カシーバー(Cassiber)の一員として来日し、彼らのライブに篠田がゲスト出演したのだった。

70年代からドイツを中心に反体制的フリージャズ、アヴァンギャルド・ロックの領域で活動していたゲッベルスは、80~90年代以降、尖鋭的な作家たち(ブレヒト、ハイナー・ミュラー、ブランショ、ロブ=グリエetc.)のテクストを素材としたラジオ放送劇、音楽劇(ムジークテアター)の作曲・演出へと活動の重心を移し、今では欧州では最も有名な現代音楽作家として認知されている。(1952年生まれ、ということは今年還暦だ。奉祝)

…などと拙く紹介してみただけでは「ああ、現代音楽の人ね」と予め拒否反応示されかねないのだけど、ここは黙って騙されて聴いてみて頂きたいところだ。
根がジャズ、ロックの人なので、オーケストラを使っても「クサい」ほどにかっこいいフレーズを連発してくる。管楽器は高速でリズムを刻むし、そのリズムもロックのビートに近いし、打ち込みやサンプラーも平気で使いまくるし、打楽器はロックのドラムの音色に近い。極めてスリリングな楽曲ぞろいなんである。

のっけから一曲目が「オーケストラとサンプラーのための組曲」だ。途中から、突然弦楽セクションがやたら緊迫感を煽る旋律を弾き出し、そこにロックドラムの乱打が介入してくるあたりは、何度聴いても飽きない。
タイトル曲「サロゲイト」も、高速で突っ走るオーケストラをバックに、ヴォイス・パフォーマーであるデヴィッド・モスがある小説の一節をダミ声で朗読(というか、絶叫?)するという、マジメなクラシック・現代音楽マニアなら眉をしかめること間違いなしの破天荒なパフォーマンス。
自分は、このゲッベルスのアルバムは「オーケストラで演奏したロック」だと思って聴いている。

ECMではゲッベルスのアルバムは何枚も出ており、有名な作品にはドン・チェリーやアート・リンゼイをゲストに迎えた「THE MAN IN THE ELEVATOR」、他にもラジオ用に製作された劇を収めた三枚組CDなんてのもあるが、今後も日本盤の出る気配が皆無なのが残念至極である。

……………

しかし、このアルバムの中で自分に特別に強く印象づけられているのは、真ん中に位置する「ホラティ人--三つの歌」という曲。

ブレヒトの劇を基にハイナー・ミュラーが書いた詩的テクストを楽曲化したものだ。
内容は、古代ローマの悲劇的故事に由来する。
都市国家ローマと、対立する都市アルバは全面戦争の代わりに、それぞれ代表者を選出し、決闘させることで勝敗を決することにした。
ローマからはホラティ人が、アルバからはクリアティ人が選ばれた。
決闘は、ホラティ人の勝利に終わる。血に染まったクリアティ人のマントを手に、ローマに凱旋したホラティ人をローマ市民が讃える。
しかし、彼に悲しみと憤りをぶつける人物がいた。ホラティ人の妹である。彼女は兄の握るマントを指し、こう叫んだ。
「そのマントが包んでいた人を、私に返して!!」
ホラティ人の妹は、兄が殺したクリアティ人の恋人だったのだ。
自分の名誉を認めない妹を、兄は刺し殺した--彼女の恋人を貫いたのと同じ剣で。
こうして、ホラティ人は相反するふたつの称号をひとつの身に、同時に負う--ローマの〈英雄〉、そして身内を殺した〈犯罪者〉--。
「言葉は純粋でなければならない」。〈英雄〉かつ〈犯罪者〉というパラドックスは成り立つのか? ローマ市民は裁定を下した……


かような陰惨な内容の歌詞を、このアルバムでは黒人女性歌手、ジョスリン.B.スミスがホイットニー・ヒューストンばりの高音で堂々と歌っている。曲もひたすら暗く、重い(「なう」欄に、YouTubeにアップされたこの曲のライブ演奏をリンクしてあるので、参考までに)。

このアルバムの発売が西暦2000年。
自分が最初に図書館でこれを借りて聴いていたちょうどその頃、ニューヨークであの「同時多発テロ」が起こった。
あの信じがたい映像が日々流されている時、自分はテレビの音を消し、ラジカセにこのCDをセットし、「ホラティ人」をずっと流しっぱなしにしたまま、炎を噴いて崩落してゆくツインタワーをただ見ていた。
あの破局的な映像に相応しいBGMは、この曲以外には有り得ないと、なぜか理由もなく当時の自分は確信していたのだった。
今でもその感覚は変わらない。〈英雄〉と〈犯罪者〉が同一人だという、許されざるパラドックスが現実になってしまったあの場面には、これ以上に相応しい「破局のBGM」を、まだ自分は聴いたことがない。


2012-05-20 22:31:00

ワンコイン試聴室: disc 22.

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コンポステラ『歩く人』(Off note)
500円で購入。

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篠田昌巳のアルバムをこんな値段で買ってしまっていいのか、という気持ちもないわけじゃないが後ろめたさよりはやはり「得したぜ」感の方が勝ったんである。

これ以前に持っていたコンポステラのアルバムは、篠田昌巳名義の大所帯編成のやつなので、基本形がトリオだったと知り、驚いた。
篠田と中尾勘二のサックスに、関島岳郎のチューバ。このアルバムは全てライブ録音でゲスト参加者もいるが、チューバがベース(低音)を担当するかたちで、それがまた何とも不思議にグルーヴィなのだ。

クレズマー、ポルトガル民謡の哀感もチンドンのいかがわしい熱気も一緒くたに圧縮された、とても高濃度なミクスチャー音楽。それでいて理屈抜きに聴く側の心の襞に直に触れてくる、〈歌〉を奏でてくれる無二の〈声〉、それが篠田昌巳の演奏だ。

チューバの刻むリズムは、ぼくらの知るはずもないニューオーリンズのマーチング・バンドをなぜか想像させる--つまり、遥かかなたの〈ジャズ〉の源を。

根無し草でありながら、世界のあちらこちらで響いていただろう様々な〈路上の音楽〉の記憶を、確かな歌にして再び路上の民へと贈り返す、真のinternational popular group--一瞬のあいだ強烈な火花を放って消えたコンポステラとは、そういう試みの共同体だったのだろう。
34歳の若さでこの星から旅立った篠田昌巳の意志は、今もソウルフラワー・モノノケ・サミットや大熊ワタルのシカラムータが引き継いでいる。

まずは聴いてみよう、この素晴らしい〈歌〉を。


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