読売の原発信仰とその系譜 | 永田町異聞

読売の原発信仰とその系譜

この国に原子力を導入した張本人は読売新聞の柴田秀利である。正力松太郎が「原子力の父」と呼ばれたのは、柴田がその影武者として動いたからだ。


保守合同で自民党が誕生した1955年に読売新聞が原子力キャンペーンを開始し、同年4月28日、経団連を中心に「原子力平和利用懇談会」が発足した。それが、原子力村の起源であり、原発推進の第一歩だった。


その時代からの理念を受け継いでいるのか、読売新聞は、福島第一原発の放射能災害が国土を汚染し、無数の国民の命を危険にさらした今となっても、原発重視の社論を変えようとしない。


23日付の社説では、「冬の電力需給 北海道の停電は命にかかわる」と題し、「泊原発を再稼働すれば電力不足を解消できるのに…今冬には間に合わなくなった」と、北海道民に脅しをかけて、原発再稼働の必要性を説いている。


電力不足など日本全国、どこにもない。使い古した脅し文句はもう通用しないのではないか。


これはもう読売新聞の“ジャイアンツ愛”ならぬ“原子力愛”というほかない。その萌芽をたどると1953年の夏に行きつく。


この年、二人の日本人が別々に、それぞれ異なる目的でアメリカに渡った。一人は衆院議員、中曽根康弘。もう一人が読売新聞の柴田秀利だ。


中曽根はマッカーサー司令部の対敵諜報部隊(CIC)に所属していたコールトンと親しく、その勧めにしたがってハーバード大学夏期国際問題セミナーに参加するため7月に渡米、2か月間ほど滞在した。


一方、柴田は日本テレビ開局にともなう1000万ドルの借款交渉を任され、この年は数度にわたり渡米したが、ちょうど中曽根と同じく7月から8月末にかけて米国で最後の詰めの仕事にあたっていた。


その年の12月8日、ソ連の核開発が活発さを増すなか、アイゼンハワー大統領が国連で、原子力の平和利用を呼びかける演説をしている。


柴田が日本テレビ開局に必要な1000万ドルを借りる条件を整え、帰国前のあいさつまわりをしていたころのことだ。友人の紹介で会ったジェネラル・ダイナミックス社の副社長からテレビのエレクトロニクス技術と原子力の平和利用についての話を聞いた。


ジェネラル・ダイナミックス社といえば世界初の原子力潜水艦ノーチラス号を造った会社だ。柴田は原子力の将来性を想像し、興奮をおぼえた。


柴田と中曽根が米国で接触したかどうかは分からないが、二人とも原子力に強くひかれたことは間違いない。


中曽根は渡米の翌年、すなわち1954年3月、数人の議員とともに、原子力研究のための2億6000万円の予算修正案を国会に提案して通過させた。


柴田は第二次読売争議にかかわり、吉田茂と相談のうえ共産党勢力を撃破した男だ。その力量をGHQに見込まれ、左翼思想に染まっていたNHKに投入された。


1947年ごろから1951年の講和条約成立まで、ニュース解説者をつとめて米国の情報戦略に一役買った。そんな特殊な経歴が米国要人との人脈を築いていた。


柴田もさっそく動きはじめた。中曽根らが原子力予算を通したすぐあと、偶然にもビキニの米核実験による第5福竜丸の被曝事故が発覚し、反核・反米運動が燎原の火のごとく広がったからだ。


柴田は、ビキニ事件をきっかけとした反核・平和運動が、ソ連による資本主義打倒の世界戦略の一環だと信じて疑わなかった。


柴田は、日本人の反米感情をおさえるための方策を原子力の平和利用に求めようとした。そこには、米国側からのひそかな働きかけがあった。


米国の密使が訪ねてきたときの状況を柴田の著書「戦後マスコミ回遊記」からうかがい知ることができる。


「このまま放っておいたらせっかく敵から味方へと、営々として築きあげてきたアメリカとの友好関係に決定的な破局を招く。ワシントン政府までが深刻な懸念を抱くようになり、日米双方とも日夜対策に苦慮する日々が続いた。このときアメリカを代表して出てきたのが、D・S・ワトソンという私と同年輩の、肩書きを明かさない男だった」(戦後マスコミ回遊記より)


柴田はワトソンにCIA要員かと問うと、ワトソンはこう答えた。「違う、僕は国防省の人間である。ホワイト・ハウスと直結しているから大使館など、まどろっこしいところを経由する必要はない。何とか妙案はないか、考えてくれ」


このやり取りがあって数日後、柴田は考え抜いたあげくワトソンに次のように結論を告げたという。


「日本には昔から“毒は毒をもって制する”という諺がある。原子力はもろ刃の剣だ。原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳いあげ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望を与える他はない」


原子力は核爆弾にもなれば、国の産業を発展させるエネルギーにもなる。米国が提唱する平和利用のキャンペーンを強力に進めることによって、反米・反核感情がやわらぎ、国民が共産思想に染まっていくのを防ぐことができると思ったようだ。


ワトソンは「柴田さん、それで行こう」と、柴田の肩をたたき、ギュッと抱きしめたという。


その後、とんとん拍子に日米の話し合いが進み、おおむね次のような経過をたどる。


1955年春に経団連を中心とした「原子力平和利用懇談会」が発足して間もなく、ジェネラル・ダイナミックス社のホプキンス社長を団長とする米国の原子力平和利用使節団が来日、それを読売新聞や日本テレビが大々的に報じた。


そして日本政界では、同じ年の5月15日、三木武吉と大野伴睦が会談し、保守合同、自民党結成へと進む。これにより日本に確固たる親米政権が誕生し、ソ連の影響力は弱まっていく。


米国は反共・親米プロパガンダのために日本テレビ創設を後押しし、CIAが正力にポダムという暗号名をつけて、正力や柴田を利用してきたフシがある。


つまり、日本のテレビや新聞を使い、「自由と民主主義の国・アメリカ」を印象づけるとともに、原子力の平和利用を宣伝して、反米感情や核アレルギーをやわらげるという企てだ。


そうした心理作戦が大きな効果をあげて、ライフスタイルのアメリカ化が進むにつれ、米国的な利便、効率、経済優先主義にもとづく原子力発電への傾斜が強まっていったといえる。


読売新聞の米国追従、原発推進路線は、その成り立ちからして、筋金が入っている。


「今年度上期の貿易赤字は初めて3兆円を突破した。安全を確認できた原発を順次、再稼働していかないと、国富の流出に歯止めがかからない」(23日読売社説)


そのように、普通の生活というかけがえのない財産を原発で失った国の大新聞が社説でしゃあしゃあと言ってのけるおぞましさには、ふつうの神経ではとうてい太刀打ちできそうもない。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)