証拠なき強弁となった小沢裁判論告求刑 | 永田町異聞

証拠なき強弁となった小沢裁判論告求刑

 「そもそも、検察審査員が証拠評価を誤ったとしても、そのために検察審査会の議決が無効になることはない」


小沢一郎氏に禁錮三年を求刑した指定弁護士は、裁判がなぜ無効ではないのかを主張するため、躍起になって奇怪な理屈をこねた。


「検察審査会に提出される証拠は信用性について十分吟味されたものとはかぎらない…捜査関係者や裁判関係者であっても、証拠の信用性に関する判断を誤ることはあり得る。いわんや、一般市民である審査員が、証拠の判断を誤り錯誤に陥ることはあり得ることだ」


プロでさえ、証拠について判断を誤るのだから、一般市民にすぎない検察審査員が錯誤に陥ったとしても、そのために検察審査会の議決が無効になることはない、というのだ。


指定弁護士という立場はあるにせよ、小沢氏に論告で求めた「規範意識」が著しく鈍磨しているといわざるをえない。


これでは、検察審査会制度の欠陥をあらかじめ認めたようなものであり、その欠陥の罠にかかって被告人席に座らされる者の人権を、あまりにも見事な捨象の仕方で無視している。


そして、その欠陥を補うものとしての立場に貶められた裁判所について以下のように述べる。


「検察審査会法には、検察審査会の議決が無効となる場合の定めはない。…裁判所は取り調べに証拠を総合して評価し、その上で事実の証明がないとの判断に達したのであれば、判決で無罪を言い渡すべきであり、それで足りると解すべきである」


つまり、誤った起訴であっても、裁判所が無罪を言い渡せばこと足りると、いささかの恥じらいもなく、空疎な論陣を堂々と張るのである。


それなら、検察審査会なるものにどういう存在意義があるというのか。


今回のように、東京地検特捜部がウソの捜査報告書で審査員の判断を誘導しようという悪魔の誘惑に駆られたのは、検察の判断をチェックするはずの検察審が、逆に検察の手でいかようにも操作できるという自明の理を承知していたからである。


検察審に小沢に不利な捏造捜査報告書を提出した一方で、70通にのぼる小沢有利の取り調べメモを審査員の目に触れないようにしていたことが明らかになっている。


小沢氏の元秘書、石川衆院議員を取り調べた田代検事が、報告書の「虚偽記載」で市民団体に刑事告発され、検察当局から事情を聴取されたのも周知のとおりだ。


場合によっては、特捜部長をはじめ3人の検事が逮捕された大阪地検特捜部の二の舞いになりかねない。


いやむしろ、公文書の虚偽作成によって、一人の政治家を罪に陥れようとしたことは許されるべきではなく、検察は再び身内の犯罪を立件してしかるべきである。


官僚支配統治機構の解体を唱える政治家の抹殺をねらった特捜検察の小細工は、石川供述調書など、小沢氏の関与を裏づけるものとされていた証拠を東京地裁が不採用とするのに十分な所業であり、指定弁護士は小沢氏有罪を立証する手立てを失った。


虚偽捜査報告書などに誘導されて強制起訴が決まり、それにもとづいて続けられてきた裁判。そのうえ、石川調書という最大の攻め手を奪われて、指定弁護士はさぞかし途方にくれたことだろう。


だからこそ、指定弁護士はまず冒頭で、この裁判の有効性を語ることによって自らの弁論の正当化をはかり、証拠にもとづかない主観的判断を糊塗するかのように強弁的な論述を展開するほかはなかった。


 「石川はほぼ毎朝、被告と会っており、本登記を先送りし、代金全額を支払う処理をすることを隠す理由などは全くなく、被告の指示・了解なしに、このような処理をすることは絶対になかったというべきである」(指定弁護士)


事実そのものに迫真性があれば、「絶対に」などという言葉は全く不要であろう。


 新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)