根拠なく推測と矛盾だらけの陸山会判決 | 永田町異聞

根拠なく推測と矛盾だらけの陸山会判決

いま、東京地裁、登石郁郎裁判長の判決文要旨を読んでいる。この矛盾に満ちた文章が、この国の司法の場で通用することに唖然とするばかりだ。たとえば、陸山会事件に関するこの記述。


◇04年分収支報告書に「借入先・小沢一郎 4億円、備考・04年10月29日」との記載がある。・・・石川被告は4億円を複数の口座に分散させた後、陸山会の口座に集約しているが、4億円を目立たないようにする工作とみるのが自然だ◇


それが自然だろうか。であるなら、なぜ04年収支報告書に「4億円を小沢氏から借りた」ことを記載するのだろうか。


こういうくだりもある。「これらの事実を総合的に検討すると、石川被告は4億円の収入や、これを原資とした土地取得費用の支出が04年分収支報告書に載ることを回避しようとする強い意志を持って種々の隠ぺい工作をしたことが強く推認される」


不可解な文章ではないか。これに対しても同じ疑問をぶつけたい。ではなぜ、04年収支報告書に小沢氏からの4億円借り入れを記載したのだろうかと。


約3億5000万円の土地代金を支払ったとについても、記載していないわけではない。土地の登記が完了した翌年1月7日に支払ったことが次年度報告書で明らかにされている。


記載したことを無視し、記載しなかったことだけで考えれば、検察の言うような片手落ちの理屈になり、そのストーリーにそって作文した東京地裁の判決文になる。


この事件はつまるところ、記載の仕方がどうあるべきかという、きわめて事務的なルールの問題だ。


そのような案件で強制捜査にまでおよんだことを正当化するために、検察は、小沢氏が陸山会に貸した4億円のなかに裏金が含まれているという、勝手な解釈を論拠の柱に据えた。


判決文要旨にはこうある。「水谷建設社長は胆沢ダム建設工事の受注に絡み、大久保被告の要求に応じて、04年10月に5千万円を石川被告に、05年4月に同額を大久保被告に手渡したと証言したが、ほかの関係者証言や客観的証拠と符合し、信用できる。一切受け取っていないという両被告の供述は信用できない」


それほど東京地裁が水谷建設社長の証言を信用できると断定しているのに、なぜ検察は、1億円の贈収賄事件として立件しなかったのであろうか。当然、確信を持てないから立件できなかったのである。


だいいち、どこの政治家が、ゼネコンから裏金をもらって、そのカネを公的文書に残る表の取引に使うなんて馬鹿なことをするだろうか。裏のものは裏で使うのが自然だ。


東京地裁は、村木冤罪事件で供述調書のほとんどが証拠不採用になった流れを受けて、陸山会事件でも多くの調書の信用性を否定したが、この判決文を見る限り、それは検察ストーリーをそっくり受け入れたという印象を薄める下準備と考えざるを得ない。


法廷での証言などを重視したように見せかけてはいるが、判決文を素直に読めば、その判定になんら根拠や証拠があるわけでもなく、あるのはただ裁判官の「推認」のみであることがわかる。


ここに筆者は、日本の司法の崩壊現象を強く感じる。できることなら「無罪判決」は避けたいという、裁判官の心理がこれほど白日のもとにさらされては、裁判所への国民の信頼は地に堕ちるだろう。


「検事から控訴されない裁判官が高く評価される」という人事上の不文律が従来からこの国の司法界をゆがめてきた。


そういえば、ジャーナリスト、岩上安身氏のインタビューに、元大阪高裁判事、生田暉雄弁護士は、三権分立とは言いながら実態として検察など行政権力に盾突きにくい裁判官の心理状況を次のように語っていた。


「現在、行政権力が肥大化し、議会権力は付け足し、裁判はもっと付け足しになっている。第一、予算規模が違う。法務官僚は検察官が多く、検察権力が幅を利かしている。徳島地裁時代に私はかなり無罪判決を出したが、先輩に『あまり無罪を出すと出世に差し支えるよ』と言われた。無罪を出すということは
行政権力に否定的な考えの持ち主とみられる。最高裁自体が行政権力に弱い。予算を握られているからだ。裁判官独立の原則があり、他の権力の介入を許さないタテマエだが、結局は給料や人事で操られている」


検察のみならず、裁判所までが推測や印象にもとずく恣意的な判断をしていることを自ら明らかにしたのが今回の判決といえるだろう。

新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)