裁判所の控訴の勧めと「甘えの構造」 | 永田町異聞

裁判所の控訴の勧めと「甘えの構造」

「怖すぎるので先に殺してから切ってくれ」と懇願する被害者を生きたまま電動のこぎりで切断し、二人を殺害した被告は、常識的に考えても死刑になって当然であった。


被害者とはなんら面識がなく、覚せい剤輸入、密売の利権がほしくて、共犯者に二人の口封じを買って出たという。極悪非道というほかない。


ところが、この被告に裁判員裁判で初の死刑判決を出した横浜地裁の裁判長は「控訴を申し立てることを勧めたい」と奇妙な“説諭”をした。説諭と言うより、判決を自己否定したかのようだ。


記者会見に応じた裁判員の1人は、重い判断を迫られた感想を「毎日が大変ですごく気が重かった。何度も涙を流してしまった」と語ったという。


裁判長の「控訴の勧め」には、裁判員の間に死刑への異論、あるいは躊躇があったことがうかがえる。


彼らを躊躇させ、涙を流させたのは、被告が改悛の情を法廷で示していたからだろう。


非道な事件ながら、シロウトである裁判員が人間の命を奪う判断を下す立場になったことへの、同情心が確かにわれわれにはある。いずれ同じ立場になるかもしれないのだ。


筆者はこの異例な「控訴」説諭と、裁判員の一人の「涙を流した」という報道に接したとき、土居健郎氏の名著「『甘え』の構造」に紹介された、ある光景を思い出した。


それは、ラフカディオ・ハーンの随筆「停車場で」に綴られたつぎのような物語である。


強盗をしてつかまり、巡査を殺して脱走した犯人が再び逮捕されて熊本に帰ってきた。駅頭に群衆がつめかけ、巡査の未亡人がその場にいた。背中には小さな男の子が負ぶさっている。


護送してきた警部がその子に「これがお父さんを殺した男だよ」と告げ、男の子は泣き出したが、その瞬間、犯人が次のように語りだした。


「堪忍しておくんなせえ。堪忍しておくんなせえ。・・・あっしゃァ、坊ちゃんに、なんとも申し訳のねえ、大それたことをしちめえました。ですが、こうやって今、うぬの犯した罪のかどで、これから死ににいくところでござんす。あっしゃァ死にてえんです。よろこんで死にます。だから坊ちゃん、・・・どうか可哀そうな野郎だとお思いなすって、堪忍してやっておくんなせえまし。お願いでござんす・・・」


やがて警部は犯人を連れてその場を立ち去ったが、するとそれまで静まり返っていた群衆が俄かにしくしく啜り泣きをはじめ、そればかりか警部の目にも涙が光っていたというのである。


ラフカディオ・ハーンは以上の光景に接して「どんな日本人もその精神のうちの大部分を占めている、我が子に対するこの潜在的な愛情」に深く感銘したようだが、精神医学者である著者の土居氏は、そこからさらに深く踏み込んで解釈を進める。


この場合犯人は子供を可哀そうと思うと同時に、自分も実はこの子供と同じくみじめであると悟ったといえないだろうか。・・・日本では謝罪に際し相手に対し幼児のごとく懇願する態度をとり、しかもそのような態度は常に相手に共感を呼び起こすので、あたかもお詫びが魔術的な効果を持つように、外国人には見えるのであろう。見物の群衆がすすり泣いたのも、ただ子供のためばかりでなく、改悛している犯人のためでもあったといって過言ではない。


お詫び、謝罪があれば日本人は相手を許す性向がある。それは日本人の美点でもあるが、情に流されやすい脆さもはらむ。


西洋人も、中国人も謝ることを嫌うところをみると、他国と海を隔て、黒船来航まで他国から侵略される心配をほとんどしなかった日本人のDNAは、よほど謝る人の善意を信じるようにできているのだろう。


裁判員裁判の被告の「改悛」が本物だったかどうかは知る由もないが、「可哀そうな野郎だとお思いなすって、堪忍してやっておくんなせえまし」と、自らのこれからの運命を哀れんで声を震わせた「停車場で」の犯人のように、いまだに裁判員たちに「哀れんでもらいたい」という、「甘え」の精神構造が被告になかったと言い切れるだろうか。


死刑判決を下しながら控訴を勧めた裁判員裁判、法的拘束力を持ちながら裁判所に判断を丸投げした小沢一郎氏への検察審査会議決。いずれも「感情」と、その場の「空気」が、法治の精神を歪めているように思える。


市民の良識を司法に反映させるという目的はそれでいいが、いつも筆者が繰り返しているように「事実本位」が退けられ、「気分本位」が優先されることがいちばん怖い。


マスメディアが重い判断に戸惑う「市民の涙」に同情を寄せるのは一人の人間として理解でなくはないが、それと裁判はまったく別であろう。検察といい裁判所といい、日本の司法はこの先、どうなるのだろうか。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)