無頼と滑稽、男ハマコーの哀しき晩節 | 永田町異聞

無頼と滑稽、男ハマコーの哀しき晩節

昭和59年4月4日の衆院建設委員会。


委員長は武闘派で鳴らすハマコーこと浜田幸一。55歳。


前年に初当選した遅咲きの代議士、野中広務が質問に立った。野中はこのとき58歳。


野中 「名神吹田-京都間の六車線化に関連し、この道路の実態をよく知る一人といたしまして、私はこの事業の円滑な推進にぜひ協力をしなければならないと思うのでありますが、この工事区間の大山崎地内にぜひインターの設置を要望するものであります」


この質問に、担当の官僚が答弁したあと、浜田が口を差し挟んだ。
 
浜田委員長 「彼は当委員会の出席率も最高にまじめでありまして、一時間も欠席いたしておりませんので、大山崎インターの問題については、採算性もさることながら、十二分に意を尽くされて処理されるよう委員長から御要請を申し上げておきます」


野中は委員会が終わると、浜田に「ありがとうございました」と礼を言いに歩み寄った。


浜田はこう応じた。


「私に人徳がないから議員が出席しないんだと思っていたが、あんたはずっと出席してくれた。心の中で感謝していたんだ」


義理人情の猿芝居のようなやりとりにはうんざりさせられるが、彼らは心底、男どうしの気脈を通じ合わせたようなのである。


青嵐会の極右、浜田幸一と、社会党より社会党的と言われた野中広務。


かたや「元ヤクザ」を公言し、若き日に在日朝鮮人相手に暴れまわっていた。


一方は、被差別部落出身で、在日朝鮮人や社会的弱者に優しい眼差しを注ぐ半面、敵対する政治家には容赦ない脅しと、権謀術数の限りを尽くした。


一見、相容れない政治信条ながら、体質的には、互いの琴線に触れ合う共通部分があったのだろう。


その後、野中は自民党実力者への道をひた走ったが、ハマコーは暴れているか、罵っているか、博打に興じているかの印象しか残さないまま、当選7回にして、一度も閣僚を経験することなく、1993年、息子に地盤を譲って引退した。


その後、ハマコーがテレビ番組に出演しまくっていたのは周知のとおりだ。無頼と滑稽のまじり合った特異なキャラを面白がる人も多かったのだろう。筆者などの目には人の話を引っ掻き回しているようにしか見えなかったが。


ハマコーが頼みとしてきた、ヤクザの頭目、稲川会の稲川聖城や東声会の町井久之、戦後日本のフィクサー、児玉誉士夫、笹川良一も今はない。


ラスベガス「サンズ・ホテル」のカジノで150万ドルもの大金をすったとき、借金を肩代わりしてくれた小佐野賢治もまた、はるか昔にこの世を去っている。


最近、テレビでもあまり姿を見ないような気がしていたところへ、背任容疑で逮捕されたとか、昨年1月に破産宣告を受けていたというニュースが報じられた。


もう誰も頼りにする人間がいなくなったということか。


81歳になって、モンゴルの土地で一儲けという、いかにも胡散臭い話を持ち出していたというが、そんなところも、恐れを知らぬ男の哀しい晩節を感じさせる。


新 恭  (ツイッターアカウント:aratakyo)