勇ましい与謝野氏の言動に実行力はついていくのか | 永田町異聞

勇ましい与謝野氏の言動に実行力はついていくのか

「この半年間、本気で鳩山政権を倒そうという気概が見えなかった」


「現執行部を刷新して新生自民党で出直す道もある。それがだめなら新党を含め新しい道を歩む決断をせざるを得ない」


10日発売の文芸春秋に、上記のような内容の論文を与謝野馨氏が寄稿しているという。谷垣総裁や大島理森幹事長では参院選を戦えないと断じ、新党結成をちらつかせている。


外国特派員協会で、谷垣降ろしに言及した舛添要一もそうだが、どこまで本気なのか、いささか実行力に疑念が残る。


二人とも、野心は十分。知性にあふれ、口も達者だ。ただ、惜しむらくは党内基盤がいずれも弱い。舛添は人望がなく、与謝野は無派閥。知が勝ちすぎて、情がいまひとつの感がぬぐえない。


さて、与謝野氏の性癖というか、行動パターンにはある種の特徴があるように思う。ご本人はお気づきだろうか。


例えば、衆院選前の昨年7月、与謝野は石破茂とともに首相官邸に乗り込み、麻生首相に退陣を迫った。内ポケットには辞表を忍ばせていたというから、それなりの決意があったのだろう。ところが、二人とも麻生を説得できず、すごすごと引き下がった。


のちになって、そのときの首相とのやりとりを著書でこう明かす。


「麻生総理、総裁のままで総選挙に突っ込むのはあまりにも危ない。ここは選手交代してから選挙をやらないといけないのではないか」(与謝野、石破)


「そんなこと言ったって後の総裁をいったい誰がやるんだ。おれの後なんて誰もいないじゃないか」(麻生)


麻生が退陣して新総裁のもとで戦えば、あれほどの惨敗はしなかったと後日、著書のなかで言う。これが、与謝野に対して抱く筆者の物足りなさだ。


辞表を忍ばせて首相のもとに出向いたのである。麻生の心をわしづかみにして、退陣を決意させるくらいの人間的迫力が与謝野に必要だった。


それを成すこともできず、あとで嘆息しているようでは、政治力がいかにもひ弱といわざるを得ない。泥をかぶることなしに、自分だけ良い子でいたいという、エリートの幼児性も感じる。


昨年6月、麻生首相が鳩山邦夫総務相の首を切る一方で、日本郵政の西川善文社長を留任させ、世間の批判を浴びたさいも、与謝野の口からこんな言葉が飛び出した。


「総理が鳩山さんに辞任を要求したこと自体は、あり得る選択肢だったが、かたや西川社長が続投というのでは、いかにも均衡を失していました」「あのとき、私ももっと強く進言できていればよかったのですが」


バランスに欠ける人事だと思うのなら財務相の職を賭してでも西川同時更迭を麻生首相に迫るべきだった。あとになって「もっと強く進言すべきだった」などと語るのは、麻生内閣を支える立場にあった政治家の、責任ある態度とはとても思えない。


与謝野氏のこうした過去の言動パターンがあるために、今回の文芸春秋誌上で党刷新や新党結成への言及をしても、「野党になって薄らぎつつある存在感をアピールするためのパフォーマンスの一種」ではないのかと筆者などは疑ってしまうのだ。


今のままの自民党では民主党に対抗する勢力になれないことは確かだろう。解党的改革ができなければ、しだいに衰退するのは目に見えている。


党の重鎮がいまだに権勢をふるおうとする現状では、解党的改革は容易ではない。したがって、舛添要一や与謝野馨が、新党結成を云々するのはとりあえず前向きの議論ではある。


問題は実行力、求心力、資金力だ。彼らにそれだけの覚悟と政治力があるのかどうか。ご両人とも、やれるなら「党内でひと暴れ」してごらんなさい、と言いたいところだ。


ただし、舛添要一と与謝野馨が手を組んで大きな変革の波を起こすなどということは筆者のなかでは、イメージしずらいことではある。


別々に鉄砲を撃って、何も起こらないまま参院選へ、という可能性が高いのではないか。それだけ、自民党に強力なリーダーシップを持った人材がいなくなったということだ。


ご面倒でしょう がワンクリック(1日1回)してください、ランキングが上って読む人が増えるそうです

  ↓↓↓↓↓

人気ブログランキングへ