ユーアイを唱えた鳩山首相と禅の精神 | 永田町異聞

ユーアイを唱えた鳩山首相と禅の精神

朝日新聞の「鳩山首相研究」という記事のなかで、永平寺の僧侶が鳩山に説いたこんな言葉が目についた。


「友愛は厳しいし、切ない概念。現実の理念として追求するには劇薬だ」


己を捨てる覚悟を、鳩山に求めたのだという。おそらく、この瞬間、鳩山のなかで、「友愛」の意味は深化したのではないか。


もともとは、フランス革命のスローガン「自由・平等・博愛」のうち、博愛、すなわちフラタナティを意味する。


鳩山の祖父、一郎が、EUの源流となった汎ヨーロッパ運動の提唱者、クーデンホフ・カレルギーの著書に用いられたフラタナティを、「友愛」と訳したことに、その言葉の起源がある。


すなわち、「友愛」は革命の旗印となった概念であり、フレンドリーとか、ラブとかいう甘いものではない。


「友愛が伴わなければ、自由は無政府状態の混乱を招き、平等は暴政を招く」。


自由と平等が原理主義に陥り、暴走して人間の尊厳を冒すことがないよう、「博愛」「友愛」という均衡の精神が必要であることをヨーロッパの先人は知っていたのだ。


永平寺で、鳩山が抱いていたこの西欧的な概念に、日本的な「禅」の魂が吹き込まれたのであろうか。


いまの日本は、自由と平等の暴走のさなかにある。企業や個人が市場で飽くなき金銭欲を満たす自由は、この国の長い歴史が育んできた道徳観を破壊しつつある。


男と女の性差や、個人差といった「差」の価値を認めない、奇妙な平等主義が、教育界を中心にはびこり、権利のみを主張するエゴイスティックなモンスターが出現している。


つまり、自由と平等という美しい概念には、欲望という本能がひそんでいる。


鳩山が学んだ「禅」の、己を捨てよという教えは、欲望を捨てよということであり、欲望のとらわれから解放されたときはじめて人は「心の自由」を得るということであろう。


むろん、鳩山がそうした「禅」の心を体得できたかどうかはわからない。「禅」は頭で理解するものではなく、体得するものである。


しかし、小沢民主党の幹事長であった期間、鳩山が欲張らず、淡々と運命に身を任せようとしているように見えたのは、「禅」というものが彼のなかに宿っていたせいかもしれない。


少なくとも、凶暴化しやすい自由、平等のバランス剤としての「友愛」と、己を捨てる「禅の精神」との間に、鳩山は通底する何かを見出したのかもしれない。


昨日の国連演説で鳩山はあえて「ユーアイ」を日本語で用い、次のようにその意味を説明した。


「友愛とは、自分の自由と自分の人格の尊厳を尊重すると同時に、他人の自由と他人の尊厳をも尊重する考え方です」


「友愛精神に基づき、東洋と西洋の間、先進国と途上国の間、多様な文明の間等で世界の架け橋となるべく全力をつくしていきます」


国際社会は、国家エゴのぶつかり合う世界である。そのなかで、「架け橋」たらんとすることを美辞麗句でなく本気で考えているとしたら、命がけの覚悟が必要だろう。


「現実の理念として追求するには劇薬だ」と友愛について鳩山を諭した僧侶の言葉は、生半可なものではない。


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