麻生太郎氏のジコチュー「責任力」 | 永田町異聞

麻生太郎氏のジコチュー「責任力」

相手の事情や心情をくみとることを「斟酌」という。なかなか味のある日本語だ。


麻生太郎さんは、あまりそういうことをしないでも、人と摩擦を起こさずに生きてこれた人なのだろうか。


「そりゃ金がねえなら結婚しない方がいい」。この部分だけ聞けば、麻生さんのこの発言、確かに一理ある。


ところが、「若者に結婚資金がなく、結婚の遅れが少子化につながっているのではないか」と学生から質問されたことに対する首相の答えだというから、誰もが首をひねるのだ。


普通の人なら「斟酌」するだろう。わずかばかりの「斟酌」で十分だ。


日本の将来の重大問題である少子化対策として、若者の収入を増やす政策を考えてほしいと、この学生は言おうとした。そう思うのが一般的だろう。


「結婚資金がない」というところだけを捉えて「金がないなら結婚しないほうがいい」と言えるのは、要するに相手の話をよく聞いていないということである。


そういえば、あの時も似たようなことがあった。昨年12月、都内のハローワークを視察したときのことだ。職を探しにきた若者に麻生さんはこう諭した。


「何をやりたいか決めないと就職は難しい」


これも、一般論としてはもっともだ。若者には職業に対ししっかりとした志を持ってほしい。


しかし、急激な景気悪化のあおりで、希望する仕事を探して見つからず、困り果てている人に、そんなことを言ったら、あまりに気の毒である。


せめて「選り好みせず、何でもやってみることも、人生のいい経験になる」とか、前向きの言葉で励ましてやってほしかった。


人を思いやる手本をハローワークの職員や、テレビの視聴者に示してくれてもよかった。


さらに言うなら、若者が就職に困り、結婚もままならない今の日本を変えていくのが総理大臣のつとめであるはずなのだが、その自覚が、ちっとも麻生さんの物言いからは、感じられない。


ここに、決定的に欠けているのは、首相という立場以前の、人に対する思いやりだろう。


大富豪の子息だから何でも許されてきたとか、苦労を知らないからだとか、月並みな批評はやめておこう。


ただ、あえて麻生首相の掲げる造語を使うなら、総理大臣の「責任力」は、国民と痛みを分かち合おうとする「想像力」から生み出されるものではないか。


雲上人のような総理が、庶民の日常に分け入って、話を聞くというわけにもいくまい。ならば、そこはやはり、想像力だ。


デリカシーをもって、斟酌し、想像し、それをもとに配慮したり、責任を果たすのが政治なのではないか。


斟酌、想像、配慮こそが「力」であり、責任は、政治があたりまえに引き受けるべき「任務」であろう。「責任力」などという造語は、ジコチューの見本のようで、あまり上等とはいえない。


圧力団体の要求で省庁が立案し、族議員のごり押しと閣議の事実上の追認式で決定される政策は、圧力団体に責任を果たせても、国民への責任を果たしたことにはならない。


さて、いよいよ、衆院総選挙も大詰めだ。


党の国対委員長、大島理森や、総務会長の笹川尭が大苦戦を強いられているのは、票を求める党の論理が政治を歪めている印象を世間に与えたからではないか。


利権にまみれた党の論理を抑え込み、身を挺してでも国民生活を守るという「矜持」が麻生さんにあったなら、「責任力」という聞きなれない言葉にも、いくばくかの説得力を感じることができるだろう。


「相手に合わせるだけでは誰一人幸せにできない」(自民党)


民主党へのネガティブキャンペーン用アニメCMの締めのひと言を、麻生さん自身がよく噛みしめてくれれば、まだ自民党も浮かぶ瀬があるのだが・・・。


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