社員教育をしていく際には、技術的な「やり方」教育と、考え方、生き方の「あり方」教育の2つを同時進行させなければなりません。

「やり方」教育はどの会社でも行います。

学校で言えば、「勉強」を教えない学校はないのと同じです。

仕事においての「技術」を身につけてくれれば、会社にとって戦力になります。

学校において「勉強」ができれば、試験でいい点数がとれます。


一方の「あり方」教育というのは、技術や勉強のように明確な1つの答えがあるものばかりではない場合が多いです。

1つの出来事に対して、見方、考え方によっては正解にも不正解にもなる様なことを、伝えていかなければなりません。


例えば、学校において,校則で決められている場合に「なぜ髪は染めてはいけないのか?」と生徒に聞かれたら、先生や親は自分なりに考える答えを用意して生徒や子供に伝えていかなければいけませんが、勉強のようにすべての生徒が納得するわけではありません。



職場においても、例えば、電車の遅延証明書を持ってきた社員に、毎回、遅延証明書を持って来れば遅刻が正当化せれるのか、それとも電車は、多少遅れることを前提で運行しているもので、10分や15分遅延しても遅刻にならないような想定をして家を出るのが社会人なのではないかということを伝えていかなければなりません。



学生時代の遅刻は、自分が遅れて自分が授業に参加できないのだから、自分の問題になります。

しかし、社会人において、遅刻するということは、お客様や同僚に迷惑をかけるということになるのです。

自分がした失敗で、自分が損をするのであればある程度は「次からは気を付けてください」で済みますが、周りの人に迷惑をかけているのであれば、学生時代以上に重く受け止めてもらわなければなりません。


学校におけるやり方教育は、道徳教育のようなもので、「いくら勉強やスポーツができても、人間として価値がなければ社会では通用しないですよ!!」ということですが、多くの場合、社会に出てから痛い目にあって、改めて「あり方」を学んでいかざるおえないように感じます。


一方、社会に出て、あり方教育のみをしていると、経験年数が増えるにつれて、「自分はできる(方だ)!!」という勘違い人間を量産してしまうことになってくるのだと思います。

仕事の技術は経験年数で比例してきますが、「やり方」教育は年齢とは関係ないような気がします。



答えのあるやり方は割と簡単に教えることができますが、答えが一つではないあり方は、本人が気づかなければ永遠に気づけないと思います。


勉強や仕事ができないことは自分も自覚できますが、みんな自分の「あり方」は普通だと思っているので、自分の「あり方」に問題があることを自覚できる人はほとんどいないと思います。


当クリニックでは、あり方教育に力を入れているので、賞与の際にスタッフ同士でお互いのあり方を点数化して、あり方を見える化しています。

当クリニックの社員レベルが高いと言われるのは、このあり方教育の仕組化にあると思っています。


「やり方」教育というのは、考え方や生き方を同じ方向に向けていくということで、一朝一夕には身につきませんし、教える方も日々、自分の生き方、考え方を正していかなければならないのです。


大人のあり方教育はとても難しいですが、難しいからこそ、やりがいも感じますし、そこに力を入れていくことで他の医院との大きな違いを打ち出せるのだと思っています。


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許すということ

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人は誰しも過ちを犯すし、失敗しながら学んでいく生き物だと思う。

しかし、自分の失敗では自分を強く責めて過度に落ち込み、他人の失敗では、相手の失敗を過度に追及してしまう傾向にあるのが人間なのだと思います。



そして、自分の失敗へのとらえ方と他人の失敗へのとらえ方には相関関係があるように思います。

それは、他人の失敗を許せない人ほど、自分が失敗した時にも同じように自分が他人から責められているように感じてしまい、強く自分を責めてしまいがちになるのではないかと思うことがあります。



人生は、「鏡の法則」「自分の先入観で周りの見え方が違ってくる」「与えたものしか手に入らない」など、結局は自分の思いが目の前の形になって現れたり見えてしまう、という現実があります。



自分も失敗するし、他人も失敗します。

そんな時、他人の失敗を許せる人間に近づいていくことが自分の失敗で過度に落ち込まないで済む唯一の方法なのではないかと考えるようになってきました。



そうはいっても、どうすれば他人の失敗に寛容になれるのだろうか?と考えた時、例えばその人のした失敗が自分にとって無関係の時には寛容になれますが、自分に損害を与えたり、自分の中での非常識なレベルのことだったりすると、どうしても怒りという感情が優位に立ってイライラしたり感情的になってしまいます。

感情のスイッチがいったん入ってしまうと、なかなか簡単にはスイッチを切ることは難しいものですが、「他人を責めれば責めるほど、それは必ず違う形で自分に返ってくる」と信じることで、感情と一致してしまって自分の思考を客観視することができて、少しは他人の失敗に寛容になれるような気がします。

一方で、「許すことの大切さ」の逆の見方として、他人の失敗に寛容になることと、他人の失敗を見過ごすこととの違いは何なのか?という疑問が湧いてきました。

野球でミスをした人間に「ドンマイ、ドンマイ」という背景には、「お前のミスも責めないから、俺のミスも責めないでくれよ!」という甘えの気持ちの「許し」があります。

こんななれ合いのチームでは、決して強いチームになっていくことはないでしょう。



当クリニックにおいても、「これぐらいのことを注意して自分が嫌われたくない」と思っている社員はいます。

「許す」ことと「なれ合いにする」ことの違いは「利己」か「利他」の違いではないかと感じます。

相手にとってや自分のチームにとって必要なことを言うべき時に言えなくて「ドンマイ、ドンマイ」と自分のミスをした時の保険を用意している人間は、完全に「利己的」な人間ですが、相手が十分反省している状況で、自分の感情のはけ口として感情的に相手を責めることを自粛したり、自分に矢印を向けることで自分に何ができるかを考える人は「利他」的な人間だと思います。



「許す」ことが善で、「注意すること」が悪なわけではありません。

「怒る」と「叱る」は違うとよく言われますが、自分の感情のはけ口として感情的に叱ることを「怒る」といい、相手をよくしてあげたいという気持ちから発するものが「叱る」なんだと思います。



そうは言っても、「怒る」気持ちが100%、「叱る」気持ちが0%、などという極端なものではなく、自分の気持ちは51%が「怒る」気持ちなのか、それとも「叱る」気持ちなのかと、どちらの気持ちを意識して相手に伝えようとしているかということを俯瞰してみていくことが大切なのだと思います。

人間は不完全な生き物だから、完全な行いはできないでしょうが、自分の行為は「なれ合い」なのか「許している」のかを意識しながら生きていくことで、本当の「許し」を習得できるような気がしています。



利己のために見て見ないふりをする「偽の許し」をいくら重ねても、その人は永遠に人を許せる人間にはなれないと思います。



人を許せる人間になるためには、優しさだけでなく強さも必要なんだと思います。

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ポジティブとネガティブ

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朝起きて「今日一日、いいことがあるのか、嫌なことがあるのか、どんなことが待っているのだろう?」と無意識に考えることがあります。



出来事を「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」という分類に分けると、1/2の確率でその日1日が嫌な日になってしまいます。



そもそも「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」というのは、「自分の望むことが起きるのか、自分の望まないことが起きるのか」という分類になってきます。



世の中は、自分の思い通りにはならないことの方が多いので、こういう分類で1日を分類していたのでは、「嫌な日」の方が多くなってきます。



そして「今日1日何かいいことが起きないかな~」という期待を持って1日を迎え、「何もいいことがなかった」という失望の気持ちで1日が終わってしまいます。



その積み重ねで、人生をマイナス思考で考えてしまうと「生きることは嫌なことばかり起こってしまう」という結論になってしまいがちなのではないでしょうか?



目の前に起こる出来事を「いいことか、嫌なことか」で分類すると、どうしても上記のような思考の流れになってきます。



それではどういう視点で目の前に起こる出来事を受けてとめていけば、人生が前向きに受け止めることができるのでしょうか?



私は、「人生は個々の魂を成長させるためにある」と信じています。



「魂の成長」という視点で目の前に起こることを捉えていくと、目の前で起こる出来事は「自分を成長させてくれる出来事と自分に自信をつけてくれる出来事」に分類できます。



最初の「いいことがあるのか、嫌なことがあるのか」という分類方法は、視点を変えれば、「いいこと」「自分の望むこと」は、「自信をつけてくれる」出来事であり、「嫌なこと」「自分の望まないこと」は「自分を成長させてくれる」出来事に分類できます。



目の前に起こっていることは「自分を成長させてくれるか」「自分に自信をつけさせてくれるか」のどちらかでしかないのであれば、「人生は自分にとっていいことしか起こっていない」ことになってきます。



物事にはいろんな視点があります。



物事はどういう視点でとらえることができるかで、「プラス思考と」「マイナス思考」に分類できるのだと思います。



ポジティブかネガティブというのは、持って生まれた性格の違いではなく、後天的な思考法の違いなのだと思います。

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人生は錯覚である

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人は目の前に起きた現象について、いろんな解釈をすることができるものです。

「人間万事塞翁が馬」という諺がありますが、目の前の出来事に一喜一憂しても次の出来事で解釈が変わることが起きうるということなので、絶対的な事実というものは存在していなくて、全ては自分の解釈次第だということなのだと思います。



例えば、宝くじが当たれば誰でもハッピーなのかもしれませんが、宝くじであぶく銭を手にしたばかりに金銭感覚がマヒして、浪費癖が身について結果的に当たらない方が幸せなこともあります。

また、大学入試に失敗して、進路を変えたおかげで天職と思える仕事に巡り合うこともあります。



人間は神様ではないので、目の前の出来事が本当に「いい出来事」なのか、「悪い出来事」なのかを判断しても無意味なのだと思います。

別の表現を使えば、どんなに「いい出来事」と思えることにも、必ず足元をすくわれかねない危険な可能性も含まれていますし、逆にどんなに「悪い出来事」と思えることでさえ、大きな変化を起こすチャンスが含まれているものです。



人間である以上「いい出来事」が起きればうれしいし、「悪い出来事」が起きれば心配になるものです。

そういう素直な感情を無理に抑圧する必要はありませんし、感じ方をコントロールすることはとても難しいです。



それでは、目の前の「いい出来事」「悪い出来事」にどう向かい合うことが正解なのでしょうか?

この答えのヒントは、目の前の出来事を「偶然」ととらえるか、「必然」ととらえるかの違いにあるようは気がします。

目の前に起こっている出来事は、全ては自分の成長のために生まれる前から用意されていたストーリーなのだと思うことで、「この出来事から何を学べばいいのだろう?」と前向きに考えることができるのだと思います。


そして、自分の人生を他人の人生のように俯瞰して眺めることが、感情に流されないで冷静に判断できるコツのような気がします。

自分の悩みを軽減するために、自分の人生を他人の人生のように客観視できるためには、普段から、他人のことも自分のことのように尊重して生きていなければ、辛い出来事が起こった時だけ、嫌な出来事を他人事のようには切り替えられないものです。

他人事を自分事のように対処していくことで、自分事も少しずつ他人事のように感じることができるのだと思います。



「難しいことはシンプル」に「簡単なことは慎重に」「生きることは死ぬことである」「生まれた瞬間から死に近づいている」「他人事は自分事」「自分事も他人事」「人生は(成長のための)暇つぶし」「人生は錯覚である」etc……



人生は錯覚なのであれば、「自分はついている」「人生はうまくできている」と錯覚する方が得なのである。

あなたは、どんな錯覚や先入観を持って生きていますか?

GW中の映画鑑賞②

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前回の続きを書かせていただきます。


☆スポットライト

新聞記者たちがカトリック教会の神父による子供への性的虐待のスキャンダルをあばいたアカデミー賞の実話。

神父という聖域へのスキャンダルは、容易に記事にできない状況で、新聞記者たちの子供達への使命感、責任感、正義感などから、いろんな障害に立ち向かっていく新聞社の社員たちの姿勢に、「仕事とは何のためにするのか?」ということを考えさせられました。

仕事は誰かの役に立つことで成り立っています。

新聞社は新聞の原稿を書くことが仕事ではありません。

原稿を書くことで誰の役に立っているかを意識しなければなりません。


歯医者も歯の治療をすることが仕事ではないと思っています。

歯の治療を通じて何を伝えていきたいかを、社員一人一人が真剣に考えていかないといけないと思います。

この映画で、社員が一丸となって不正に立ち向かっている姿を見ながら、うちの社員はこの映画の社員に比べて、どれだけの「使命感、正義感、責任感」を持って仕事に当たっているのだろうか??ということを考えてしまいました。

仕事なのか作業なのかの違いは、「何のために仕事をしているか?」ということをどれだけ意識しているかどうかの違いだと思っています。

何も意識しないでしている仕事を「作業」といい、何も意識しないでしている仕事の状況を「マンネリ化」というのだと社員には言っていますが、社員にどこまで伝わっているのかと問われると……トップが情熱を持って伝え続けなければ、社員はマンネリ化してしまうものだと反省させられました。

この新聞社の社員が「使命感、責任感、正義感」に燃えて仕事をしているのは、トップにリーダーシップがあってのことだと感じ、自分とこの映画の新聞社のトップの人との情熱の差を反省して明日から頑張ろうと感じました。

☆レヴェナント 蘇りし者

レオナルド・ディカプリオのアカデミー賞受賞作品で、先住民との争いの中、巨大なクマに襲われ瀕死の状態で仲間に息子を殺され、復讐のために生きていくストーリーだ。

人は力強く生きていくためには、何らかの「生きる理由」「頑張る理

由」が必要なものだ。

デカプリオは映画の中で復讐のために生きる決意をするが、最後には「復讐は神の力に任せよう」という気持ちになっていく。

この映画を観ていて、生きるために、人間の欲望、暴力などの本能を前面に出していかないと生きていけない時代を経て、今のように法律が整備されて、お互いが人間の欲望を抑えながら理性でコントロールしながら生きていく時代が出来上がってきたことに、感謝の気持ちが湧きました。

今の平和な時代は、こういう混乱した時代の葛藤を経て作られてきたのであるから、人間の先祖の方々の命の犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけないのだと思いました。

そして、私の好きな言葉に「心が体を動かす」という言葉がありますが、どんな状況でも諦めたらおしまいで、「死」でさえも諦める気持ちが多大な影響を与えていることを再認識しました。

☆ルーム

監禁された女性と、そこで生まれた息子が、7年の監禁生活から脱出して社会に適応していく葛藤を描いています。

最近、少女の監禁事件が解決したばかりでどうしてもだぶらせていてしまいました。

以前、世界仰天ニュースでアメリカの同様の事件が流されていましたが、コミュニュケーション能力が低下し、バーチャルな世界に引きこもってしまう流れの時代には、こういう事件が多発してくるのではないかと危惧してしまいます。

私は2児の父親ですが、この映画を観ていて「母親の愛は海よりも深い」ということを痛感させられた気がします。

彼女にとって、息子は生きる源泉だったのだと思います。

人間はどんな苦境に立たされても生きる希望があれば生きていけるし、逆にどんなに恵まれた環境においてさえ生きる意味がない人は、生きていることが苦しくなってくるものではないでしょうか。

「自分が彼女だったら……」何を生きる希望にできたのだろうか??と考えると、答えが思いつかないだけに息苦しくなってきます。

日本での事件の被害者の彼女も、少しずつでも社会に適応して幸せになってほしいと思いました。

GW中に7本の映画を鑑賞しましたが、これらの映画の共通のテーマは「幸せ」や「死」についてのテーマが多いことに気が付きました。

映画には、監督やスタッフの伝えたいメッセージがあるように感じます。


経営者も映画監督と同じように、仕事を通じて社員やお客様に何かを伝えていく存在なのではないかと思っています。


私は、クリニックのトップですが、経営者とは、「人を幸せにする専門家」でなければいけないと思っています。

私にとって、「お客様の幸せ」と「社員の幸せ」を叶えていくためには、まずは自分の中での「幸せの定義」を持っておかなければいけないと思っています。



私は「言葉は力だ」と思っていますが、定義が違えば行動も違ってきます。

私にとっての幸せとは、簡単に言うと「感謝と尊敬」だと思っています。

感謝している時に、嫌な気分になることはありません。

また、他人を尊敬(尊重)している時に、その人のことを嫌いになりません。

日々、いろんなことに感謝して、自分とかかわる人を尊重している時間が長くて深い人ほど幸せな人生なんだと思います。

GWも終わり、新たな気持ちで仕事に向き合うことになりますが、私にとっての仕事とは幸せになるための手段です。

仕事を通じて「感謝と尊敬」ができる人間に近づくために、困難と向き合っていきたいと思っています。

GW中の映画鑑賞①

テーマ:

私は今日からまた仕事モードに切り替えです。


GWの後半は、帰省のチケットが取れなくて、私一人、東京で留守番をすることになりました。

この休みに何をしようか考えましたが、せっかくの休みなので、自分と向かい合ってみようと思いました。

家族と過ごすときには、どうしても子供中心の生活パターンになってしまうため、テレビや映画などは縁遠くなっていたので、5月1、3~5日に映画を2本ずつ計7本見ることにしました。

以下、簡単なストーリ-と簡単な気づきを書かせていただきます。



☆追憶の森(渡辺謙主演)

希望を失った主人公が、自殺目的で富士山の青木ヶ原樹海で日本人の渡辺謙と出会い、「生と死」について考えさせられる映画でした。

主人公は浮気が原因で妻とケンカが絶えなくなり、妻の病気がきっかけで関係が改善しかけた矢先に妻が事故に巻き込まれてしまい、自分の人生を悲観しての自殺に向かうのですが……

自分の生き方を振り返って、もっと感謝の気持ちを持って生きていかなければいけないと反省させられました。

今、自分の目の前の状況は何一つ当たり前ではない事、生きるのにも死ぬのにも、人は意味を見出そうとしていること、良い夫婦関係を続けていくためには、お互いのことを尊重していかなければいけない事など「生きる」ということについて深く考えさせられました。




☆山河ノスタルジア

中国を舞台にした2人の男性と1人の女性の幼なじみ3人の人間模様を描いています。

女性は幼なじみのうち、成功してお金持ちになっている方の男性と結婚するのですが、離婚して親権は父親の方にあって、成人して父親と子供の関係がうまくいかず、母親の子供を思う気持ちなどが身につまされました。

中国において、急激な成長により、幸せとは成功することお金持ちになることだと信じた結果、そこには幸せはなかったという結末が待っていたように感じました。

若者は夢を求めて都会に出ていきますが、故郷とは何なのかということもこの作品のテーマであったように感じました。




☆グランドフィナーレ

引退した音楽家とセレブ達が、高級ホテルで織りなす人生とは何かということを考えさせられました。

仕事にすべてを捧げてきた指揮者は、仕事、仕事で家庭を振り返らず、夫として父親としての義務を果たしていなかったことを娘から非難されるが、彼は彼なりに妻を愛し、娘のことを気にかけていたのだが……

そのほかのセレブ達も、世間的には成功者と言われているが、実際には家庭においていろんなことがあり、周りから羨ましがられるほど満ち足りた人生ではないものなのだ。

仕事で評価されるためには、人並み以上の努力をしないと成功という結果は伴わないが、仕事における成功が人生においての成功ではない。

今、ワークライフバランスということが言われているが、何のために仕事をするのか、自分にとっての幸せとは何なのかを考えさせられる内容

だった。
若い時には「お金」「地位」「名誉」「愛」「健康」などいろんなことに幸せを結びつけようとするが、幸せとは自分で考えて自分で答えを出していくものなのだと思いました。


☆永遠のヨギー

スティーブンジョブズ、ビートルズのジョージハリソンなどにも影響を与えたヨガの伝道師ヨガナンダの障害をつづったドキュメント。

私の生きるテーマである「今ここ」に集中する生き方とヨガの瞑想は、切っても切れない関係だと思っているので、「瞑想」について学ぶために鑑賞しました。

現代における情報の洪水に飲み込まれないためにも、何かを得る努力よりも何かを捨てる努力の方が大切なのではないかと感じました。

今後とも、いろんな情報が飛び交う世界において、自分にとってマイナスな情報をどうやって遮断していくかがより求められる時代になっていくと思います。

体に良くない食べ物を口にすると体がむしばみますが、心によくない情報を耳にすると心がむしばみます。

口にする食べ物と同じように耳にする情報にも細心の注意を払う必要がある時代なのだと思います。



後半分の3本は次回コメントさせていただきます。







問題が発生した時の考え方

テーマ:

日々仕事をしているといろんな問題が起きるものだ.

問題が起きた時に私が意識していることは、

①この問題の本質的な原因は何なのか

②この問題を再発させないためには何を変えていけばいいのか

③自分でコントロールできない問題の時にはスルーすることも大切だ、

という3点だ。



 物事には原因があって結果があるものだ。

好ましくない結果が目の前に起きた場合に、人は好ましい結果を求めいろいろと考えるが、本質的な原因を見誤ると、それ以降の②と③もすべてが間違った回答を見立ててしまうことになりますし、

逆にここがうまくいけば、8割がたその後の流れもうまく運びます。


全てのスタートは①の本質的な原因を見つけることにあるのです。

その際に注意していることが、今回の出来事は、

「問題」と受け止めるのか、それとも「チャンス」と

受け止めるのかにあります。


目の前の出来事を「問題」として受け止めてしまうと、

「最悪」「ついていない」などマイナスに受け止めてしまいがちです。


人間は物事をマイナスに受け止めてしまうと、問題の原因を

誰かのせいにして個人に責任をなすりつけてしまいがちです。


一方、今回の問題は「チャンス」なのだと思えれば、

少しでもプラスのことを見つけようとして、

現実を前向きに受け止められます。



 の本質的な原因を見つけるために不可欠なことが、


自分の心が前向きに「チャンス」と受け止めているか

「ピンチ」受け止めているかにあると言えます。



目の前のことは「ついていない出来事」ではなく、

何かに気づかしてもらうための

「神様からのプレゼント」だと考えられる人は、

全てがいい循環で回っていくのです。


 本質的な原因を見つけることができたら、再発を防ぐためにはこれまでと何かを変えるための行動をしていかなければなりません。

これまでの習慣ややり方が間違っていたから

今回の好ましくない出来事が起こったのですから、

仕組みややり方を変えていかなければなりません。

 でも書きましたが、原因を当事者の個人になすりつけるのではなく、仕組み、習慣、社風など組織として変えていけることに

意識を向けていかなければなりません。


 で考えられる原因を見つけられたら、

あとは1つでも行動にうつせることができたら

今回の出来事は「意味のある出来事」になってくるのです。

「誰か個人の責任だ」と考えた時点で、それは「意味のないついていない出来事」になってしまうのです。


 そうはいっても、全ての出来事で

①の本質的な原因を見つけたり

②で何かを変えることが見つからない場合もあります。

そんな時にはとりあえず、今回の出来事は、

今の自分にはすぐには解決できない問題なのだと考え、

一時的にスルーすることも大切なのです。


仕事をしたり、生きていれば、日々いろんな問題が発生します。

解決していかなければいけない問題がたくさんあります。

物事には優先順位があり、今すぐに解決しなければいけない問題と後回しにした方がいい問題とあります。



人間は、時間もエネルギーも有限です。

試験問題でも、いつまでも解けない問題に時間をつぎ込んでいたのでは試験の制限時間になってしまいます。



一生懸命考えても本質的な原因が見つからないで、

変えるべきことも思いつかの場合は、

一時的にスルーすることもとても大切なスキルなのです。



そういう難問でも、自分が成長していけば、簡単に解決できる時期が来るものなのです。





歯科医院の院長として23年が過ぎました。

経営者として、一番勉強になったのが人の使い方のような気がします。

多くの人にとって、経営とは、「お金を稼ぐこと」のようなイメージがあるのではないかと思いますが、私の中では、経営とは「人を育てること」というイメージの方が強いです。

「企業は人が全て」と言われていますが、経営者1人ができることはたかが知れています。


学生時代は、学業で優秀なことが最大の評価の基準でした。

それも、周りよりも優秀であればあるほど高評価の対象になりました。

いわゆる偏差値が高いということにつながります。

しかし、経営者になって自分だけが優秀になって、社員とのレベルが開けば開くほど、社員が駄目な人間に見えてくるし、社員からすれば、トップの言っていることが「意味わかんない!!」となってしまいます。


大人と子供をイメージしてもらえれば、すぐにわかると思いますが、大人からすれば当たり前であり常識的なことを子供たちは、できないことが殆どです。

そんな時に、多くの大人は「あれしろ、これしろ!!」と命令します。

「命令することと教育することは違う」ということを、私は経営者としての社員教育から学びました。


開業して長い間、私にとっては当たり前で常識なことを行わない社員に命令し続けました。

そして、そうしていくうちに私と社員の距離はどんどん開いていき、そこに信頼関係は希薄になっていき、その結果、社員から見た私は、「自分のやりたくないことを命令して無理やりやらそうとする嫌な奴」になり、私から見た社員は「何度言っても分からないし、言ったように行わない、ダメ社員」という社員と私は敵同士という関係になってきました。


命令すればするほど関係は悪化して、お互いの関係が悪くなって何も改善しないのであれば、見てみないふりをするようになってきました。

そうすると、お互いの衝突は避けられますが、私のストレスは日に日に溜まってきますし、社員はわがままになってきます。


命令しても反発されるし、見てみない振りをしても状況は悪化して、私の中では四面楚歌の気持ちで、社員教育の本を読んだりセミナーに出まくりました。

そうしているうちに、自分自身の子供時代や社員時代のことを振り返って自分を俯瞰するようになっていました。

自分の子供時代に、今当たり前のようにできていることができるようになったのは、親から命令されたからではなく、自分自身で気づいたからだし、社員時代にできなかったことができるようになったのも、無理やりさせられたのではなく、自分の意志でできるようになりたいと思ったからだと思い出しました。


当クリニックでは、入社2,3年目以降の社員には、教育係を担当させます。

そうすると、自分が指導係になると新人に頭ごなしに「あれしろ、これしろ!」「なんでできないの?!」という上から目線になり、自分の言ったとおりにできない新人にイライラしてきます。

そして、彼女らも私が通ってきた道を繰り返し、命令と失望を繰り返していきます。

そして必ず、「教育は難しい」「指導係はしたくない」という後ろ向きな方向に流れて、「他人に指導するよりもプレーヤーとして自分の技術の向上だけに集中したい」という考え方に流れてきます。


そんな時、私は、「あなたもいつかは母親になるよね。母親になるまで、指導として命令だけを繰り返して、自分の子供にも同じことを繰り返していくのか。教育者として指導者として未熟なまま母親になって、自分の子供を初めての実験台にするつもりか!?」ということを説明して、教育や指導は今だけのことではなく、今後、人と接していくうちで避けては通れないものだということを理解してもらうようにしています。


大人でも子供でも、相手がこちらの命令に従わないのは、その「意味と価値」を気づいていないか、やらされていると感じているからだ。

伝える方は、命令ではなくその行為の「意味と価値」を伝えているだろうか??

あるいは、無理やりやらすのではなく、自分の意志でやりたい、やらないといけない、と気づかせる工夫をしているだろうか?と自分に矢印を向けていくことが大切なのではないかと思います。


教育とは、自分が当たり前にできることを上から目線で相手に押し付けることではなくて、自分にとって当たり前のことなのに相手はなぜしないのだろうか?そもそもこの行為の意味と価値は何なのだろうか?ということを再考するチャンスなのだと思います。


教育や指導は簡単ではありません。時間もかかります。

しかし、教育以上にやりがいのあることは少ないのではないかと感じる今日この頃です。

 

 

正解のない決断の連続

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経営者として「しんどいな!」と感じることの1つは、日々、答えのない決断をし続けることがあるように感じます。




学生までの勉強の問題には、「正解」がありましたが、社会人になってからは、問題の多くに答えがない場合が多いです。

社会人の問題の多くが「人との関わり」の問題であったり、「未来を予測していく」問題であったりする場合が多いから、1つの答えに絞れないのだと感じます。

「正解」がある問題というのは、どの視点から見ても答えは一つという問題ですが、答えのない問題というのは、見る視点によって「正解」が違ってくる問題なのです。




政治などがその典型だろうと思います。

どういう決断をしても、必ずマスコミからたたかれる。

どんな決断においても視点を変えれば、アラは必ず存在するものです。

完璧な答えはないし、たたかれるのを想定して、自分の信念に基づき決断を繰り返していくしかないのです。




私は安倍総理を尊敬しています。

彼の決断の1つ1つが正しいかどうかは、正直、私にはよく分からないです。

でも、彼が日本のために命を懸けて決断していることは伝わってきます。


トップが評価されるかどうかの判断基準は、正しい決断かどうかよりも、その根底に利他の気持ち、奉仕の気持ちがあるかないかの方が重要なのではないかと感じます。

日本を切り盛りする大変さと歯科医院を運営していく大変さではレベルが全然違うけど、トップに求められるのは、頭の良さ以上に、「使命感、正義感、責任感」の高さなのではないかと感じます。


学生時代は、勉強すれば知識を増やすことはできましたが、「使命感、正義感、責任感」を高めていくためには、日々、答えのない決断を繰り返していくことしかないなのではないかと感じます。

答えのない決断を繰り返さないといけないリーダーの仕事は大変だなぁ~、と思うこともありますが、そうしていくことでしか「使命感、正義感、責任感」を高めていくことができないのであれば、その大変さを歓迎していくしかないのだろうと思っています。




視点を変えていくことで見えてくるものが違って見え、多面的に物事を見える人間になれるためには、批判にさらされる恐怖と戦いながらも、いずれかを選択して決断を繰り返していくしかないのだと思います。




やりがいとは大変さと比例します。




誰もが簡単にできることにやりがいは感じにくいものですが、大変だからこそ知恵が湧き、達成できた時の喜びもひとしおなんだと思います。

「使命感、正義感、責任感」を高めていくことは、人が生きていく目的の1つであると思っています。

そうであれば、これからは答えのない決断を喜んで下していきたいと思いました。

 

 

コーチングと感動の関係

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多くの場合、自分が何度か感じたり気付いたことでも、そのまま無意識下に眠らせてしまいます。



知ってはいるけど自分のものになっていない、日常で自分の血や肉となっていないものが殆どなのです。

そういう気づきの予備軍、腑に落とす予備軍をたくさん持っているのです。

そういうものを1ランク上の気づきをさせてくれる言葉や歌詞、テレビなどに感動するのです。



心にひびく歌や映画というのは、そういうふうに潜在意識に眠っている言葉に刺激を与えてくれるものなのです。

1度も感じたり気付いていない内容は、腑に落とさせることはできません。

「言われてみればその通りだな!」ということは、相手の心に響きますが、「何それ?」「意味わかんない!」ということは、相手にスルーされてしまうのです。



何度も見たり聞いたりしているのに、腑に落ちていなかった内容を腑に落とさせてくれるきっかけになった言葉や人間に強い共感を得るのです。

そのきっかけを与えられることがコーチングであり、感動なのです。


私の持論では、上手に話すよりも思いを込めて話す方が相手に伝わると思っています。上手に話す人はたくさんいますが、思いをもって話すには話し手に情熱がなければ伝わりません。



他人と過去は変えられません。

他人を変える唯一の方法は、相手に気づかせることです。相手に気づかせるためには、まずは自分の心が動いた経験を積み重ねていって、それをわかりやすく伝えていくしかないのだと思います。



まずは自分の心が動いた経験を大切にして、その経験を自分の中で深く刻み込んで、相手に伝えることを繰り返していくことで伝え方もブラッシュアップしてくるのだと思います。