「わたしはわたし」「自分の人生」…、流されそうになったとき、自分を自分に引き戻すために唱える祝詞がある。祝詞はもちろん言葉のエネルギーを持っていてある程度は有効に働いてくれるが、賞味期間が短い。すぐに出番が訪れる。永続的な効果にするためには、この言葉を自分のものにしなくてはならないだろうと結構長いこと思ってきた。

今日これを書いたのは、「ついに!」のご報告でございます。もちろん、自分用の納得なので汎用性があるかどうかは不明だが、このポイントでお困りの方がいらしたらご参考までに目を通していただけると嬉しいざんす。

そもそも、流されそうになるのは人と比べる意識に端があると私は見込んでみた(変な言い方だがこんな「見込んだ」感じ)。比べるとき、たいていは劣等感だ。わたしなんて…が重なると自分の存在が薄くなって、自分探しの旅が始まってしまう。「人生とは…、生まれてきた目的は…」などと深淵なテーマになってしまうとき経験上、この自分透明化現象のときである。

さて、比べる意識はどうやら人の本能、リモートコントロールのようなので取りあえず棚に上げておこう。注目すべきは、自分の人生で自分のためにでも人のため、世のためにでも、どんなことができるだろうかということのはずだ。そのために使える唯一のもの、それは「自分」だ。

つまりは、例えばちょっと性能の悪いと感じている脳であろうが肉体であろうが、これを生かしてナンボの世界だということだ。自分の人生の展開のすべては、この性能の自分からなのだ。

わたしは、これに気付いて少々クラクラするほどの衝撃を受けた。人生を展開させようとしたとき、優れている相手は、教えを請える有難い存在なのだ。優越感を持たせてくれるなら、これまた有難い存在だ。私は、「比べてどうのこうの」の趣味の意識遊びにどれほどの時間を提供してきたことかと愕然となったのである。人生はそれほど長くない、遊んでいる場合ではないのである。

そう思って周りを見渡したら、「当たり前だけどね~♪」の先輩たちがたくさんいるではないか…。いやはや、まいったまいった。

さ~て!と、大きく深呼吸したらガイドさんたちの「やっとこのポイント(スタート地点だけどね)に来てくれましたかぁ」の深い安堵のため息が聞こえてきた。梅の花が各地で可愛らしい花を開きはじめた。桜の花の蕾は満を持していることだろう。