いしいしんじの本  いしいしんじ | 青子の本棚

青子の本棚

「すぐれた作家は、高いところに小さな窓をもつその世界をわたしたちが覗きみることができるように、物語を書いてくれる。そういう作品は読者が背伸びしつつ中を覗くことを可能にしてくれる椅子のようなものだ。」  藤本和子
  ☆椅子にのぼって世界を覗こう。

いしいしんじの本/白水社
¥1,995
Amazon.co.jp


谷崎潤一郎は、壮大な闇をはらんだ大伽藍で、梶井基次郎が、狂気をとじこめた美しい小箱。
そして、中島らもは話を飼っている。


うん、うん。
解る、解る。



<自分にとって大切なものとなる本は、自分で見つけるのでなく、向こうからやってくる>

<世の中には自分が読むべきなのに、まだ題名すら知らない本が雲のはるか先で山ほど眠り続けている>


ビンゴ!!

きっと本好きは、みんなそう。


ただ、彼がみんなと違っていたのは、自ら本を書いているということ。




「いしいしんじの本」は、いしいしんじという作家が、これまで出会った本やら、本に対して抱いていた思いやら、本から受けた影響やら、いしいしんじという人間の形成に関与したと思われる本というものに関する諸々の文章でできています。


書評あり、本に関連したエッセイありで、種々の雑誌に掲載されたものをまとめたものです。
10行あまりの短いものから、長くても10ページ足らずのサクサク読める嬉しい本です。



ル・クレジオの「大洪水」の書評で語られているスポロガム(型抜きして遊べる板ガム)のごとく、これらの外側の輪郭である”いしいしんじ”の文章を読んでいると、内側に抜かれた”いしいしんじ”が現れるというステキな本でもあります。



私は、一時期、ネットの「ごはん日記」を読んでいまして、そこに登場する書名をピックアップして、本選びに活用していましたが、外れがありませんでした。


「自分の好きな作家が”好きな本”というのは、やっぱり自分も好き」という公式は正解で、こんな風に大量に書名が列挙されてると、困るんですよねぇ。あせる




『ビッグ・サーの南軍将軍』 リチャード・ブローティガン
『暴力はどこからきたか』 山極寿一
『コンゴ・ジャーニー』 レドモンド・オハンロン


『夜明け前のセレスティーヌ』 レイナルド・アレナス
『目眩まし』 W・G・ゼーバルト
『最後の者たちの国で』 ポール・オースター


『白痴』 ドストエフスキー
『魔の山』 トーマス・マン
『夢の浮橋』 谷崎潤一郎


『ヨッパ谷への降下』 筒井康隆
『彼女について』 よしもとばなな
『自分と自分以外』 片岡義男


『ヒトの変異』 A・M・ルロワ
『海街 diary』 吉田秋生
『僕とポーク』 ほしよりこ


『ジュージュー』 よしもとばなな
『幻影の書』 ポール・オースター
『許されざる者』 辻原登


『ひらいて』 綿矢りさ
あと、漱石とブラッドベリを全部


あぁ、読みたい本がいっぱい。



まぁ、嬉しい”困る”ではあるのですが。。。





本

どんなささやかなことにもきっと「夢」や「ロマン」は宿る。夢の広がり具合はあなたの目や耳がどれだけ自由に開かれているかによる。自由な目で見れば、1Kの部屋は森に変わるし、自由な耳で聴けば水道の滴もシンクを叩くパーカッションに変わる。
 本を読むことは、「いまここ」にいながら、「いま、ここ」ではない世界と溶け合う最もポピュラーな方法だ、そして読んでいきながら、自分をつなぎとめている枷と思い込んでいた「いま、ここ」が、実は自由な広がりをもち、「夢」と「ロマン」が横溢している場所であることに気づく。本を読んでいる時間、あなたの「生」は溌剌と色づき、その色は周囲の世界をも色づかせる。最後のページ、最後の一行、最後のひと事を読み終えて表紙を閉じ、目をこすって周囲を見回すと、あなたの「いま、ここ」は、ほんの少しだが確実に変わっている。