【自己紹介】私の履歴書 | 輝く未来に一歩踏み出す女性のための「心豊かな人生の歩み方」~ 心に花咲く®学校 ~ 葵桜®こころ塾 / 葵桜®きもの着付け教室

輝く未来に一歩踏み出す女性のための「心豊かな人生の歩み方」~ 心に花咲く®学校 ~ 葵桜®こころ塾 / 葵桜®きもの着付け教室

「きもの」と「こころ」の講座を通して心豊かな生き方の歩み方をお伝えしています。
ライフステージの変化で将来の夢や社会での居場所を見失った女性が再び活躍する社会を創ることを使命に活動しています。

アピールポイント見つけるために、履歴書を書いてみようかと。

 

40年分をまとめて書くのでとっても長いです。

 

しかも、アピールポイント見つけるために書くので、

 

アピールできることしか書きませんので、鼻に付くこと請け合い旦那

 

どうぞスルーしてください~。

 

 

まつさき まゆみ

 

京都市在住、二児の母

 

趣味:夜更かし、茶道、ゴスペル

特技:寝不足

 

 


 

<乳児期>

1973年、京都府京都市上京区(西陣)にて、一卵性双生児の長女として生まれる。

 

父:自動車会社勤務のしがないサラリーマン、母:破天荒な専業主婦

祖父:室町の呉服屋、祖母:和裁士

 

双子で早産、1800gで産まれたため、3ヶ月保育器で育つ。

(妹は仮死状態で生まれてきて、諦めてくださいと言われたほどだったけど、今では超健康優良児)

 

とっても活気の溢れる町内で、恵まれた環境で育つ。

 

家を出たら誰かが表で遊んでいたので、遊び相手には困らない。

中学校の隣に住んでいたので、遊び場は中学校の玄関。時には、先生や中学生と遊んでもらうことも(誰でも入れる平和な時代)。

 

 

<幼児期>
幼稚園入園と同時期から子役をやってた(ギャラは1回5000円)。

出演番組は、東山の金さん、暴れん坊将軍など東映系の時代劇が主。

一番の思い出は、夏目雅子さんと絹石鹸のCMで親子役を演じたこと。

ピアノを習い始める

(撮影に行くことが多かったので、幼稚園にはほとんど行かず・・・友達の中では陰の薄い存在だったと思う)

 

 

<小学生>

相変わらず兄弟や近所の友達と中学校で遊ぶことが多かった。

家にいるときは朝から晩までピアノを弾いて歌を歌って過ごす。

 

学校では目立たない存在だったように思っているが、

 

学芸会では主役を演じることが多かった。

 

母親が卓球をしていたので、小1のときに自分も習いたいとお願いするも、

 

「地味なスポーツだから」と母に反対される(新体操とかやらせたかったらしい)。

小4になっても気持ちが変わらなかったので、ようやく習い始める。

5年生の頃には学校の卓球室でブイブイ言わせ、上級生から(卓球の女王⇒女王様)と呼ばれる

 

中学年以降、学級委員や○○委員長をつとめ、

 

朝礼の時、毎週朝礼台の上でマイク持ってた。

ピアノ伴奏もまかされていた。

5年生くらいからは、積極的な性格になっていた(らしい)。

(双子だったし、前に立つことも多かったので、それなりに名前は通ってた)

 

 

<中学生>

家の隣の中学校はかなり荒れていたので親に私立を受験するよう言われたものの、

隣に学校があるのに遠くに行くのはイヤだと思い、結局隣の学校に入学。

学校が隣であるにお関わらず、双子の妹と必ず一緒に登下校していた、気持ち悪い姉妹だった。


この頃、クラスメイトの影響で「光GENJI」の親衛隊に入る(なんでもとことんやるタイプ)

 

中2くらいから、人生最大のモテ期が訪れる。

だけど、私は卓球のことと、卓球の先輩(他校)のことしか頭になかった。

 

毎日卓球教室に通い、ほとんど太陽に浴びることなく過ごした。

 

学校のプールも入れなかったので(塩素で蕁麻疹が出る)、色も白く「白雪姫」と呼ばれる。

以前「女王様」と呼んでいた先輩たちからは「お嬢様」と呼ばれる(決してそんな生い立ちではない)。

市内の試合会場に行くと、女子が行列を作ってサインを求められる(ただし、府下となるとそうはいかない)。

(双子だったし、クラブでも上位入賞していたので、それなりに名前は通っていた)

 

中3で妹の影響で「東京キッドブラザース」のミュージカルをはじめてみて、はまる(光GENJIはフェイドアウト)。

 

 

<高校生>

卓球の名門校(女子高)に進学する。

 

部活の時間はめちゃくちゃ厳しくて地獄だったけど、それ以外はパラダイス。

試合会場では後姿がかわいいと言われた(当時、ヒップラインに自信あり)。

戦績は、シングルス近畿ベスト32、ダブルス近畿ベスト16、団体全国ベスト8。

卓球してて一番うれしかったことは、

世界卓球大会で憧れのオリンピックチャンピオンのプラカードを持って先導したこと。

(女子高では部活女子は憧れの的なので、学校でも試合会場でもそこそこ名前は通っていた)

 

進路を決めるとき、部活の特別枠の推薦で大学に行くか、学業で就職するかの選択を迫られる。

 

 

バブルが弾けた後で、4年後の就職が保障されない時代。

たまたま憧れていた会社への就職を保障してもらったので、就職を選ぶ。

 

 

<社会人(正社員)>

社内の情報を管理をする部門に配属される。

入社当初は1分1秒を争うデーター処理部門で、

もともと「のろま」な性格の私はかなりのコンプレックスを抱える。


 

その反面仕事の正確さには定評アリ。

いかに効率よく正確に仕事をすることに精を出すと同時に、

全社で文字入力のスピードを競う大会で最年少記録で優勝。

退職するまで一位をキープ。

(入社2年目から社内でそこそこ有名人)


入社2年目の春、母親とケンカして、会社の浴衣祭りの時に浴衣を着せてもらえないことがきっかけに着付教室に通い始める。

 

ここで、着物にはまる。

師範⇒高等師範⇒助教授(後に教授に改名)⇒花嫁着付師⇒時代衣裳着装士・・・全過程修了。

 

花嫁着付師&着物のコーディネータに憧れ、着付に加えカラーコーディネイトも学ぶ。

⇒22歳の時、ホテルの面接を受け、この仕事はおばあちゃんになってもできる仕事。今、一流企業で働いてるんやし、10年後にいらっしゃい」と言われ、あっさり方向転換(着付教室のインターンだけは続ける)。

 

この頃、双子の妹と二人暮らしをはじめる。

と同時に仕事でも認められるようになる。


のろまなで使えないはずの私だったけど、

3年目に先輩を抜かして下積み人生卒業し、社内システムを企画する部門に異動。

社内の役員向けのパソコン教室を担当したり、エライさんの苦情処理をまかされたり・・・

新規システム導入で全国行脚。

(このころは結構有名人)

 

で、とある事情で「東京に行きたい!」と退職。


東京で生活するつもりで東京でとある家に居候し、就職活動をする。

いくつかいい話をもらったものの、親に一流企業以外は行かせないと反対される

(大都会は悪いことしてる会社も多いからという理由)

結局決まらず、京都と東京を往復する日々。

 

失業手当もらいに京都に帰ってきたときに、

偶然電車で元上司と出会う。


 

そこで「とある事情の張本人を京都に転勤させてやるから、君は京都に残りなさい」と言われる。

(張本人にとってはとんだ災難)

 

 

<社会人時代(契約社員)>

かといって元の会社に出戻るつもりはなかったので、とりあえず派遣会社に登録しに行く。

その先で、「あなたにぴったりの職場があります!」と紹介されたのは、最初に就職した会社の子会社(IT専門の会社)。

しかも上司は知ってる人・・・断るに断れない状況となり、結局その子会社の契約社員となる。

契約社員を選んだのは、正社員より給料がよかったから(当時、結婚しても続けられる職場ではなかったのですぐ結婚するつもりで・・・)

業務内容は自社ソフトの問い合わせ窓口担当や、操作手順書を作成。

社外向けのシステム導入やコンサルなどを担当。

出戻ったことを相当歓迎していただき、オジサマ方の心のオアシスとなる。

同僚からはここに「カフェまゆみ」って看板立ててお金取ったら?と言われてた。

 

そのとある事情の張本人とは7年目の夏(?)にお別れ。

妹との二人暮らしも解消し、一人暮らしをはじめ、女に磨きをかけた・笑

 

仕事は相当ハードで、何もない日は終電コース。

 

だけど習いごとはちゃっかりこなす。

この頃は料理と洋裁とゴスペルは地道に習ってた。

(仕事が落ち着いてた頃は、絵画と英会話、ピアノも習ってた)

 

ゴスペルでは、大阪の音楽イベントで最優秀賞いただいたこともアリ。今も細々と続けている。

洋裁では、妹のドレスをデザイン・制作をし、「しばらくミシンは見たくない」という状態になり、フェイドアウト。

 

<専業主婦時代>

30歳、結婚。入籍する前日に会社を退社。

 

31歳、長女出産。

32歳、妹の家から徒歩1分のところに売物件発見!「私の気持ちは変わらない」と断言し、翌日契約。

⇒半年後、引越し(今の家)。憧れの賀茂川ライフを手に入れる。

33歳、次女出産。


 

次女が幼稚園に入園したタイミングで昔の会社にアルバイトとして再び出戻る。

社内外のネットワークシステムのユーザー管理や業務手順書を作成。

会社へは、スキルアップとか関係なく、育児の気晴らしにと通っていた。

(子どもの長期休暇は仕事は休む。週2日・1日4時間労働という、こんな好条件で雇ってもらえる会社は他になかったので)

が、いつの間にか愚痴処理班となり、しかも仕事内容も物足りない。

ようやく「ここにいても私にとって得るものはない」と言うことに気づき、昨年6月退職。

 

 

<着付講師を志す>

退職してすぐに友達に着付けを教え始めたのが昨年7月のこと。

 

 


 

こうやって振り返ってみると、

それなりに目立ってたんですね、専業主婦になるまでは。

 

でも、目立つというのは私の強みではなく、何かの要素があったから目立ってただけのこと。

「双子だから」とか「人より秀でた何かがあったから・・・」


 

だから、 認知を広げたかったら、何か秀でるものを見つければよいと言うことですね!(私の場合)

 

 

それに、着物の利点は、着物着てるだけで、学校とか商店街では目立ててるわけだし、

人が入り込めない村に入り込める強みを生かせば良いのよね。

(私の強みはこちら⇒ 私の強みo(^^)o


とんがってないから村に入り込めるという考え方もできるし。

 

かといって、秀でるものがないのは寂しいので、何か見つけますよ、必ず。


 

どこにいても馴染む万能調味料で、なおかつ何か特殊技術持ってたらスゴイよね!!

とんがるとかとんがらないとかではなく、私だけの何かを見つけることは大切なこと。


 

強みでない部分に力を注いでも仕方ないという意味が少し分かった気がします。

 

 

とにかく、私らしさを忘れず、

楽しく磨きをかけていきます~!!