【初夏の島原へ編 その6】
天草四郎時貞
この名前を聞くと、切ない気持ちになるのは僕だけではないと思います
(全く知らない人もいるとは思いますが…)
さて、島原を後にした僕たち2人組は、島原半島を南下して「島原の乱」の舞台となった
「原城跡」へと足を延ばしました
「原城」とは、江戸時代初期の1637年にキリシタンの弾圧等により勃発した「島原の乱」の際
天草四郎時貞を総大将とする一揆軍3万7千人が籠城したものの
翌1638年に兵糧が尽きかけたところに、12万人もの討伐軍から総攻撃をしかけられ
天草四郎時貞を始めとする一揆軍は全滅の憂き目にあった悲しい歴史が残る城です
そんな哀しい歴史が残る古城は、今の時代までひっそりと姿を残していたので~
駐車場まで車を走らせました
その後、車を降りると巨石があったので~
どこに行っても、こんなポーズは変わらないですね~
その後、元気よく坂を上り~
階段を上り~
無事に本丸跡地に到着することができたので、歓喜のポーズをしました
その後、息子くんに「島原の乱」での天草四郎ら大勢の尊い命が失われた
哀しい話を伝えて~
静かに手を合わせ、殉教された方々に哀悼の意を表しました
そして、ここには天草四郎時貞のお墓もあったので~
若干15才の若さで一揆軍の総大将に担ぎ出されたものの
原城が落城した際に討ち取られ、その首は長崎の出島の入口にさらされたと言われ
あまりにも切なく、哀しい生涯のことを思うと、言葉にできない思いが脳裏をよぎりました
ここには、天草四郎時貞の墓碑の説明書があったので、2人で読んだうえで~
優しい顏をした、天草四郎時貞をしばし眺めて~
『あはは…』
やっぱり、こうなっちゃうんだよね~
そして、ここにはその他の墓碑や~
「ほねかみ地蔵」などがありました
「ほねかみ地蔵」は、原城一帯に散乱していた骨を敵味方関係なく集めて供養されたものですが
ここには昔の面影を切なく残すものが点在し~
戦乱の世の切なさと、平和な今の時代に生まれてきたことを感謝しました
因みに、ここからは天草四郎の生まれ故郷の天草が綺麗に見えたので
潮風に吹かれながら、故郷に帰る事ができなかった哀しさを
今の世に伝えるように、ひっそりとたたずんでいました
次回は、いよいよ最終目的地の話へと続きま~す
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