【哀愁の信州路編 その4】
戦国時代に覇権をかけた戦いは数あれど、川中島の戦いほど有名な戦いはそうそうないでしょう
時間は既に17時50分となり、完全に時間切れだったのですが
この場所こそ、今回の旅で僕がメインと位置付けていたので 「八幡原史跡公園」 にやって来ました
この時間になると、お店もほとんど閉まっているので、さっさと歩いていくと~

何やら寺社らしきものを発見

そう、これが「八幡社」です

「八幡社」とは、武田信玄が陣構えをする際にご加護を仰いだ

八幡大神(はちまんのおおみかみ)を奉斎しているそうです

武田信玄や上杉謙信に想いを馳せ、参拝しました


そして、彼方には教科書などでよく見かけた銅像が見えてきました

更に近づくと~

『おお~っ

これぞ川中島の戦いで最も有名な武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの銅像ではないか

歴史好きなら誰しも欲しがるこの一枚をゲットできて、大満足でしたよ~

そして、これが「首塚」

これは、海津城主の高坂弾正が川中島の戦いの戦死者の遺体(6,000余人)を

敵味方の区別なく集め、手厚く葬った塚の一つです

この話を聞いた上杉謙信はスゴく感動し、後に武田家が塩不足になった際

『われ信玄と戦うもそれは弓矢なり。魚塩にあらず。』と言い、直ちに塩を送り、この恩に報いたそうです

このことから『敵に塩を送る』という言葉が生まれたんですよ~

どこにでもありそうな塚ですが、歴史を知っていると価値があがりますね~

そして、これが「執念の石」

上杉謙信が武田信玄めがけて切り込んできた時、信玄の部下である原大隅が謙信に槍を突き出しましたが外れ

その槍が謙信の馬に当たったことにより馬が驚き、謙信を乗せたまま逃げたことにより信玄は助かりました

しかし、謙信を取り逃がし、無念やるせない原大隅はこの石を槍で突き通したと言われているそうです

スゴいパワーだわ

川中島の戦いで実弟の武田信繁や山本勘助ら重臣たちが戦死しましたが、この地は武田氏のものとなったのでした

しかし、こんなにキレイな場所でそんな死闘があったなんて、驚きですよね~

そして、先ほど登場した高坂弾正が城主を務めた「海津城」にやって来ました

この城は山本勘助が築城した城で、川中島一帯を統治するために築かれましたよ~

最近この辺りだけ再建したとのことで当時の様子も分かるようになりましたが

武田信玄がこの城を築いて実効支配したことが、この戦いに火を着けたと言っても過言ではないでしょう

彼方にある妻女山を見ながら往時を忍びつつ、スゴい所まで来たんだな~って、感慨に耽っていると~

お~い、時間がないぞ~

次回、哀愁の信州編最終回です
