2011年1月10日(出来たて)

 戦前右翼のリーダーたちに熱心な法華経信者が目立つことはよく知られている事実です。

 すなわち、血盟団事件のリーダー井上日召はその名からも明らかなように日蓮宗の僧侶ですし、満州事変を仕組んだ関東軍参謀石原莞爾、「日本改造法案大綱」を著わし青年将校たちの思想的リーダーで2・26事件の首謀者とされて銃殺された北一輝、大東亜戦争の思想的バックボーンとされ東京裁判法廷で東条英機の頭を叩くなどの狂気を示して免訴となったA級戦犯大川周明がそれに該当します。

 蒙古襲来にあたって日蓮が活躍した話は日蓮宗のルーツを構成する重要要素であり、これを背景として日蓮宗が対外的危機意識の強い、ナショナリスティックな傾向をもっていることは、冒頭の事実の説明として指摘されやすい事柄です。
 しかし、このたび「法華経」を瞥見する機会があり、その結果、日蓮宗の中心経典である「法華経」にこそ戦前の右翼運動リーダーを育み、鼓舞し、昭和維新に命を賭けさせた思想的背景があるのではないか、という仮説が浮かんできました。

 「法華経」が示す仏教的宇宙観、自然観は、一般的な仏教的宇宙観、自然観であり、そこに「法華経」独自のものがあるとは思えません。
 すなわち、仏教が示す宇宙構造である「三千大千世界」、解脱しないかぎり生き物が生まれ変わり続けて抜け出せないという「六道輪廻」、この世の本質は「空」であるという「色即是空」等々の考え方はいずれも「法華経」の採用するところであり、「法華経」に独自の特別な宇宙観、自然観があるとは思えません。
 さらに言えば、「法華経」に書かれていることは、「法華経」がいかに素晴らしい、最高のお経であるかということであり、素晴らしい、最高であることの内実がどこにあるのかという記述はお経の中に見つけることができません。

 それではいったい「法華経」の何が戦前のエリートたちを惹き付け、強い影響力を持ったのでしょうか?

 それはまさに「法華経」がエリート論であったからだということができると思います。

 「法華経」は大乗仏教の中心経典であり、小乗仏教に対する強い対抗意識を持っています。
 厳しい戒律と修行を乗り越えられる限られたエリートしか「悟り」に至って解脱・救済されないというのが小乗仏教であるのに対して、大乗仏教は、したがって「法華経」は、すべての者に解脱・救済が可能であることを説きます。
 「法華経」では、衆生を捨てて自分だけが「悟り」の境地に至ったとしている者(「独覚」「縁覚」「声聞」等と呼ばれています)に対して、それは真の「悟り」ではないと厳しく批判し、エリートたちに「自利」ではなく、「利他」を強く求めているのです。

 冒頭例に上げた右翼リーダーたちは、ここに必然性があったと言っていいのかどうかわかりませんが、北関東、東北の出身者です。すなわち、井上日召は群馬、石原莞爾は山形、北一輝は佐渡、大川周明は山形です。
 彼ら、知的エリートたちは極貧にあえぐ地方に生まれ、地域の悲惨をいやというほど見て育ったのです。
 社会の現状に対する激しい憤り、何とかしなければという強い焦燥感、現実を知るエリートとしての止めがたい使命感の真っただ中にいた彼らにとって、自分たちだけの安楽を決して認めず、衆生救済をを説く「法華経」のメッセージは、まさに「天の声」として彼らの脳天に命令的に響いたにちがいありません。