臥薪嘗胆 ~マツダ訴訟裁判奮闘記~


「働く」ということは、私たちが働いて生活の糧を得ている以上


働く=生きる


ということが言えると思います。


つまり働く者にとって、雇い止め(解雇)というものは「死刑宣告」に等しいことだと言っても過言ではないでしょう。


その「死刑宣告」を受け、私たちは「それはおかしいんじゃないか?」と声を上げ、裁判を行なっているわけでありますが…


私たち労働者が働くことにより、安定した社会生活を送り、希望や夢を持って生活するために様々な「法律」があります。



第2次世界大戦前、まだ労働法が整備されていない日本では、労働者を食い物にする悪質業者が多く、弱い立場である労働者から就職を斡旋する代わりに賃金の一部を中間搾取(ピンハネ)する例も見られました。


労働者は、このような悪質業者(労働者供給業者)から人権侵害を伴う酷い扱いを受け、多額のピンハネもされることになったのです。


敗戦後、日本を占領した連合軍(アメリカ)は、このような遅れた労働関係に驚き、その民主化と間接雇用の禁止…つまり直接雇用を強く指示することになったのです。


その結果として制定されたのが「職業安定法」や「労働基準法」です。


1947年に職業安定法が制定された時、GHQ労働課労働者供給事業禁止担当官であるコレット氏がこのような声明を発表しています。


新しく実施される職業安定法は、今まで日本にあった人夫供給業とか親分子分による口入れ稼業というものを根本から廃止して、この封建制度が生んだ最も非民主的な制度を改正し、労働者を鉄か石炭かのように勝手に売買取引することを日本から無くして、労働者各人が立派な一人前の人間として働けるように計画されたものである。



つまり、職業安定法ではこの頃から


雇用は正規・直接雇用が当たり前


ということを言っています。



あれから65年。


現在の労働者を取り巻く環境というのは、このブログをご覧の皆様には説明するまでもないと思います。


当時の労働環境の酷さを物語った小林多喜二氏の「蟹工船」が、派遣切りが社会問題になった2008年頃に再びベストセラーになったのも、今思えば歴史の中では必然的な出来事だったのかもしれません。


職業安定法の「例外中の例外」として1985年に制定されたのが労働者派遣法ですが、この「労働者派遣」という働かせ方は、職業安定法が制定される歴史を辿っていくと「人権侵害」と言っても過言ではないような気がします。


これは明らかに「自己責任」といった個人的な問題ではなく「労働者派遣」という、働く人をまるで鉄や石炭などの「モノ」のように売買するシステムを容認してしまった社会全体の問題だと認識しなくてはなりません。


これから社会に出る青年や今の子供たち、そしてこれから生まれてくる子供たちが「立派な一人前の人間」として安心して働ける世の中にするために、我々大人が今、何をするべきなのか?


企業にとって最大の目的は「利潤の追求」というのは理解しますが、社会を作るための企業の立ち位置や社会における企業の在り方や責任など。


65年前にGHQのコレット氏が発表した声明の真意を今一度、考え直す時期に来ているのではないでしょうか?