改めて自己紹介します…その3「社会人編①」(改訂版1) | グ

改めて自己紹介します…その3「社会人編①」(改訂版1)

いやぁ~、絶対おかしいっすよ、アメブロのランキング。


自己紹介を始めてまだ2日ですが、今朝見たら総合ランキングで一気に1000位以上もアップし、グルメランキングでも20位のアップ。


あのですねぇ~、グルメネタよりも「自己紹介」のほうがアクセス率いいって、なんだか通常ブログの更新に自信なくしちゃいますねぇ…(w




でもまあ、皆さんに私との共通項目を1つでも見つけて貰えれば今後のペタやコメも楽しくなるというもんです。


どうか暖かく最後まで読んで下さいね。




それでは本日は「社会人編」です。



東北・北海道限定☆出張族アニキのBグルメ&Bホテル-阿寒川




<エドウイン時代>


大学卒業後、13年にも亘る宮城県仙台市での生活が私のこれまでの人生の中で最も充実していた期間だったと思います。


平たく言えば「学びの13年」「スキルアップの13年」「目を見開いて世の中を見た13年」とでもいいましょうか…。


だから、この13年間のおかげでその後2度に渡る転職もしっかりこなし、常に自分の足跡を残しながらここまでやってこれたと思います。




仙台市宮城野区五輪にあるニュースカイマンション(今もあります)。


築20年は経つというものの、当時でも市内ではマンモス級の大きさを誇るマンションでして、ここから私の社会人生活は始まりました。


とはいっても当時、基本給159000円の給与ではそんな贅沢できるわけでもなく、1ルーム11畳で月41000円という家賃に惹かれての入居でした。


会社まで歩いて10分でしたのでこれまた便利でしたし、国立仙台病院までも徒歩5分の距離。


まあ周囲に飲み屋がないのは残念でしたが、仙台で飲むといえば東北最大の歓楽街・国分町がお決まりでしたから、まあいいでしょう(w


なので給料日明けは常に仲のいい他メーカーの営業マンやお得意先の店長たちと一番町通りや国分町を走りまわっていました(w




どちらかといえば(自己紹介その1でも書いてますが)私は最初から最後まで社内では浮いた存在でしたので、会社の人間と飲むのは歓送迎会の時くらいなもの。


なので飲み会といえばお得意先のスタッフたちとのほうがメインで、たまにリーバイスやビッグジョンの営業マンらと飲むくらいのものでした。




自分で言うのもなんですが、スキーは3歳の頃から始めて高校の時に2級バッチを保持(1級は2回落ちましたけど…w)。


そして社会に出て初めて買った車はパジェロのショートで、オーバーフェンダーやら屋根にスポットライトを4灯も付けた改造車でしたから、映画「私をスキーに連れて行って」世代の女性には大変もてました(w




基本的にジーンズメーカーの営業マンの仕事はルートセールスのみ。


新規のお店にアポ取りとか飛び込みをするということは殆どありませんでしたから、いかに自分の担当店舗の売り場シェアや取引額を伸ばすか、いかにスタッフたちに自分を好きになってもらうか、そしていかにお店に有効なキャンペーンや売り場展開を仕掛けるか…に業務はかかっていました。


だからファッション業界とはいえあまり女性販売員との絡みは少なく、どちらかといえば店長やオーナーとのやりとりがメインでした。


でもね、うちの商品を売ってくれるのは男性、女性問わず現場に立つ販売員の皆さん。


だから、まずは彼らに自分を売り込むことから考え、よく一緒に飲みに行ったり、うちの商品の販売量に目標を与え、それを達成したら御馳走したりしていました。


また年に数回は泊まりがけでスキーやボードに行ったりもしましたね。


とはいっても、売場の女の子に手を出したことはありませんよ~(w




基本的に仕事上では女性販売員と話はしますが、恋愛は…やばいっす。


なのでこんな仕事場でも恋愛に発展するような「出会い」っていうのはあまりないんです。


でもでもっ、年に1回だけお客さんと出会いの場があるんですよ。


それが、お得意先がクリスマス時期に行うイベント(いわゆるディスコを借り切ってのクリスマスパーティー)なんですね。


当時はマハラジャとかラジャコート、キング&クイーンなどのディスコ全盛時ですから、我々メーカーの営業マンは皆VIPルームに鎮座。


お店のお客さん達は一般コーナーというように、座る場所がガラスの壁1枚を隔てて違うんですね。


ま、御同輩の方ならお分かりのように、当時のファッションはラルフローレンのポロシャツの襟をたて~の、紺のブレザーを上にはおり~の、足元は素足にデッキシューズかモカシン…というような、いかにも石田潤一のようなファッション全盛でしたので、ガラス部屋の中にいるご同業の皆さんは殆どお持ち帰りしておりました。


そうそう、こういうイベントに来る時は女の子もいつものジーンズではなく、ボディコンなんですね。


夜用の戦闘服とでもいいましょうか…(w


それで会場を抜けていきつけのバーに連れて行き、「今度一緒に泊まりがけでスキーにでも行こうかぁ?」な~んていうと、「車は何乗っているの?」と質問が返ってくる。


「スキーヤーだもの、バリバリに改造したパジェロだよ」なんて言った日には、目がとろ~んとなっちゃって、もう確変決定でした(w


基本的にこの当時のジーンズショップの常連客でヨーロッパ車好きという娘は限りなく少なく、どちらかといえば国産4WDかチェロキーやラングラーのようなアメ車4WDが人気でした。


ファッションの1つにトニーラマのようなウエスタンブーツや、アイリッシュセッターなどのワークブーツの流行も4WD人気の延長線にあったと思います。



ま、自慢はこの辺にして…(w




私の人なりを語るならば、


お得意先の子供さんが風邪ひいてる…と聞けばケーキを買って営業に行ったり、年寄り夫婦が経営するお店へ行く時は必ず饅頭を買って行くとか、20代半ばにして私は自然とそういうお金(自腹です)の使い方をしていました。


営業マンって人から好かれてなんぼ、信用されてなんぼの商売です。


こんなこと、会社から教わったわけでもありません。


だから「今日はいくらお金を使った~」とか「経費で落ちないかな~」なんて考えたことは一度もありません。


ま、こういう営業スタイルが今流行りではないことも重々承知していますが、商売とは人と人との交わりなわけです。


いかにいい商品、売れる商品でも、嫌いな営業マンを通しては買いたくない。


嫌いになるとお店は直接会社に電話をかけて発注するようになるわけですから、そうなると会社の上司は「なぜ営業マンが行ってるのにそこで発注しないのか」「何か現場に問題があるのでは…」と営業マンそのものが詮索され、挙句の果てに賞与査定時にマイナス評価をつけられるわけです(w


社内に味方は多いほうがいいのは当然ですが、そういう目線はやはりお得意先に向けるべきであり、社内評価を高めようと思ったら、その前に得意先に信頼されて販売量をアップしてもらう、それに取引額のアップもついてくる…というのが、当たり前のことなれども当たり前にこなしてきた私のモットーです。




私が平成元年に入社した当時の仙台営業所には7名の営業マンがおりましたが、その後東北各地の営業所が全て仙台営業所に統合され、私が退職する時には12名でした。


本来であれば15名以上の営業マンがいたのですが、時代の流れからも40歳以上で確固たる実績(売上以外の指導力など)を出していない先輩方はみなリストラの憂き目に合いました。


それでも会社都合により退職金は100%出た上に、さらに人によりけりですが300~1000万円のプラスアルファも付いたそうです。


そんな仙台営業所も今では営業マンが僅か1名といいますから、どれだけジーンズ業界が衰退したのかお分かり頂けると思います。



当時のジーンズの価格設定は5900~8900円でしたが、今や市場の中心価格は3900~5900円。


全てはイオンやダイエー、ヨーカドーなどのPBブランドやウニクロといった量販店に食われたことで市場価格は変化したわけです。


が、今さらこんなことをいえた義理ではありませんが、所詮メイドイン他国(中国、タイ、カンボジア、ベトナムなど)の縫製技術は日本以下ですし、その販売価格に見合った製造原価からいけば大した製品は作れません。


いくら日本人が現地で技術指導しているとはいっても、B級品(縫製不良や原反不良など)の発生率は国内生産に比べてもダントツの高さです。


だから、あまりにも安価なPBブランドやウニクロ製品にあれほどの集客があるのは、私からすれば驚きのなにものでもありません。


所詮、安物は長持ちしません。


買うなら3900円のプロパー(定価品)を買うのではなく、6900円のプロパーをセール時に3900円で買うことをオススメします。




なおエドウインジーンズは、原反生産から縫製、ジーンズの洗い加工に至るまで全て国内で行っています。


縫製工場の大半は秋田県、青森県に集中し、洗い加工は秋田、京浜などの工場で行われています。




さて、今回の「社会人編」はまだまだ続きますので、この続きは明日にしますね~。


ではでは、「社会人編②」をお楽しみに!