魯粛と大都督。 | 呉下の凡愚の住処

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三国志(孫呉)・春秋戦国(楚)および古代中国史絡みの雑記、妄想、感想をおいてます。
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他、中国旅行記や中国語学習記も。

追記:

「大都督」の検索ワードでこの記事に辿り着かれる方が多いようなので、

正史における“孫呉の大都督”についてまとめた記事をはっておきます。

(正史ではこうなっていますよ、という参考までに……)


孫呉の大都督

http://ameblo.jp/ancyon/entry-10446088747.html



↓本文ここから↓


一般に、呉の大都督というと
周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の4人を指すことが多いです、よね?
朱異とか薛珝じゃなきゃヤダヤダ!
とおっしゃる方は少ないとおもいます(ファンの方すんません……)


でも、陳寿の『三国志』において、大都督に任じられた、と
明言されてる人は陸遜しかいません。


↓いちおう陸遜伝の該当箇所原文
黄武元年,劉備率大衆來向西界,権命遜爲大都督、假節,
督朱然、潘璋、宋謙、韓當、徐盛、鮮于丹、孫桓等五萬人拒之.


【黄武元(222)年、劉備が大軍を率いて西方の国境に攻めてきた。
 孫権は陸遜を大都督に任命し、仮節を授けると、
 自らは朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、鮮于丹、孫桓ら
 五万人を指揮して劉備の侵攻を退けさせた】


だからって、「陸遜より前の3人は正式には大都督じゃねえっす!ぷんぷん」
とか言う気はないです。
ブログ村の紹介文にもモロに
「周瑜、魯粛、呂蒙の孫呉大都督ネタ多め」て申請してあるし……


三国志サイトにおいては、“大都督=軍の総司令官”
という説明が多く見受けられるので、
私も基本的にはそのスタンスでいようとおもいます。



しかし、魯粛さんはいつ軍の総司令官に任命されたのでしょうか?
てのがこの記事の本題です(笑)


魯粛は確かに周瑜の遺言によりその後任となりましたが、
司令官うんぬん的な記述はいまだ確認できてないです。
周瑜に関しては孫権伝、魯粛伝、程普伝など、
呂蒙に関しては孫皎伝にて確認しました。



でも魯粛にはそれがないんですよー。
このひと、前線で総指揮とかしてないですしね。
それっぽいのは215年、荊州争奪戦で関羽と対峙したときくらいかな……
それも結局話し合いで解決してるし(恐喝してるようにしか見えないが・笑)
魯粛さんは広義の意味でも大都督とは呼べんのではないかと!!


周瑜の後任として兵をそのまま受け継いだんだからそれで充分じゃん、
って話ですけどねー……まあ充分なんですけど、
どこかに「魯粛は孫権軍の総司令官でした」って
書かれてるのを確認できたら最高に嬉しいじゃないですか……


ちなみに215年の魯粛の役職は、横江将軍・漢昌太守です。



あ、でも演義でははっきり大都督て書いてあるのかな?
演義の魯粛さんはキャラ崩壊もいいとこですが、
っていうか演義魯粛の中には諸葛子瑜が入っているとしかおもえない(笑)


うん、まあ、けっきょく何も解決してない気がするけど、
大都督って響きが超カッコいいから(お前は小学生か)、
魯粛さんはこれからも孫呉の大都督扱いでいいですよね!(……)



史書にて「魯粛は孫権軍の総司令官に任ぜられました」て明言されてるのを
見かけた方がいらっしゃいましたら、こっそり教えてくださいませ……


この文書いてる途中で弱気になってしまって超絶ぐだぐだ文なのですが、
残念すぎる者が書いた文なので怒らないでやってください><
弱気になりすぎたあまり削ってしまった箇所とかあるので、
気力を回復したらまた書き直そうかなーとおもってます。自己満足ですけどね!