国民の映画 | 感傷的で、あまりに偏狭的な。

感傷的で、あまりに偏狭的な。

ホンヨミストあもるの現在進行形の読書の記録。時々クラシック、時々演劇。

平成26年2月27日(木)、『国民の映画』(in PARCO劇場)を観る。



狂気と日常のコントラストの美しさ。

(あらすじ)※公式HPより
舞台は1940年代のドイツ・ベルリン。
ヒトラー内閣がプロパガンダの為に作った宣伝省の初代大臣ヨゼフ・ゲッベルズ。
彼はすべての芸術とメディアを監視検閲する権利を与えられていた。
ある日ゲッベルズは映画関係者たちを呼んでホーム・パーティを開く。
パーティにやってきた映画人たちの前でゲッベルズは彼らを招いた本当の理由を発表する。
彼は最高のスタッフとキャストを使い、自分の理想の映画を作ろうと考えていたのだ。
全ドイツ国民が誇れる映画、「国民の映画」を。
ナチス高官たちと映画人たち、彼らが一堂に介したその夜、
虚飾と陰謀に満ちた、狂乱の一夜が始まろうとしていた…。

<登場人物>
■ナチス高官
宣伝大臣 ヨゼフ・ゲッベルズ‥‥小日向文世
親衛隊隊長 ハインリヒ・ヒムラー‥‥段田安則
空軍元帥 ヘルマン・ゲーリング‥‥渡辺徹

ゲッベルスの妻 マグダ・ゲッベルズ‥‥吉田羊 
ゲッベルスの従僕 フリッツ ‥‥小林隆

■映画人たち
ナチスと手を結んだ男 エミール・ヤニングス 映画監督‥‥風間杜夫
ナチスと敵対した男 グスタフ・グリュントゲンス 演出家・俳優‥‥小林勝也
ナチスに恐れられた男 エーリヒ・ケストナー 国民的作家‥‥今井朋彦 
ナチスに嫌われた男  グスタフ・フレーリヒ 二枚目俳優‥‥平岳大   
ナチスに利用された女 ツァラ・レアンダー 大女優‥‥シルビア・グラブ
ナチスに愛された女 レニ・リーフェンシュタール 若き女性監督‥新妻聖子  
ナチスを利用した女  エルザ・フェーゼンマイヤー 新進女優‥‥秋元才加

◇◆

ひっじょーに面白かった。
今更だが、三谷幸喜の脚本力および演出力はやはり突き抜けている。
ここ最近、ますますその能力に磨きがかかってきているような。
・・ってエラソーに言えるほど見てるわけではないが。

これだけややこしい、似たような名前のドイツ人がうじゃうじゃ出てくることに、
観客を飽きさせず、人間関係を説明していくその能力にまず感心した。
入り乱れる人間関係をグダグダ説明されたりなんかしたら、
下手すりゃ第1幕でグガーグガーと寝てしまう。
第1幕で寝てしまうと、もう観客は置いてけぼり。
怒濤の第2幕が過ぎて行くのをぼんやり見るしかなくなるのだ。
そんな危険をはらんだ第1幕を全く飽きさせることなく説明し、
それもただの状況説明に終わらせることなく、終始変則的なリズムで上手く魅せていた。

次々と登場する人物の紹介や入り乱れる人物関係が軽快に説明された後に訪れる第2幕。
長い長い第2幕で、その絡み合う人間関係が磨きあい軋み合って喜劇が生まれ、大笑いをし、
そして急転直下の暗い「最終決断」の直前の夜の瞬間を目撃させられる観客。
このギャップのギリギリのバランス感覚が絶妙な三谷幸喜。
第1幕の上手さがあるからこその、あの怒濤の第2幕の成功があるのだ。


戦時中のドイツ。
小日向さん演じるゲッベルズを中心とした、
ナチスドイツ高官たちとドイツ映画界の人たちの長い長い1日の物語である。

第1幕は、
ゲッベルズが従僕のフリッツの解説を聞きながら映画鑑賞をしているシーンから始まる。
映画が大好きなゲッベルズ。
芸術をこよなく愛するゲッベルズ。
ドイツで一番映画に詳しいと一目置かれていたフリッツの解説に熱心に耳を傾ける。
どの映画人からも頼りにされていたフリッツは実はユダヤ人であったのだが、
すでにユダヤ人の排斥が始まっていたドイツ。
ナチス高官であるゲッベルスの従僕がユダヤ人であり、それは内緒であることは、
映画関係者の中の暗黙の了解であった。

そのことを何となく匂わせる第1幕。
フリッツが「ユダヤ人である」ということは明言されないのだが、
あ、内緒だったわね、あの話は・・。
もしかして彼は・・?
皆様ご内密に。
などなどの台詞で、観客にも暗黙の了解を理解させる。

ここに1つの観客を惑わせるしかけがある。
ナチス高官でありながら迫害の対象であるユダヤ人を従僕として使用しつづける。
観客は現代という視点からその関係を見つめ、人道主義というものさしで作品を測る。
第2幕でそのモノサシの尺度が全く違っていたが判明したときのあのショック。
ガビーン!!!!
今でもドキドキが止まらない!
・・という話はまた後で。

主人公であるゲッベルズの映画好きは冒頭のシーンからわかるのだが、
客としてゲッベルズ邸を訪れる映画人や芸術通で知られるゲーリングらの登場により、
彼の芸術論は、どこかで聞いたような話であったり、誰かの話をなぞっていたり、で
自分の中のオリジナルの芸術論というものがまるでなく、
ただのふっつーの映画好きのオジサンであることも明かされる。

しかもこのふっつーのオジサンであるゲッベルズ、
奥さんを捨て、女優と駆け落ちをしようとした過去も持っており、
ナチス高官のインテリであるという顔を持ちながら、
ロマンチックで情熱的で(ついでに女好き)芸術が大好き、でもその理解はとんちんかん、
という別の顔をもった人間であることが語られる。
誰よりも映画が大好きな彼は、敵国であるアメリカの映画でもいいものはよし、とした、
当時としてはかなり進歩的な思考の持ち主であることも披露された。
観客たちの中のゲッベルズの印象は、
遠い昔の冷血ナチス軍人像、から、案外普通の身近なオジサン像、へと変化し、
そんな日常のゲッベルズの姿に親しみを覚えていく。
どんどん三谷幸喜の幻惑術に惑わされる観客たち。。。というか、私。
人道主義というものさしを作品全体にあてがおうとする私。
これが三谷幸喜のワナとも知らずに。。。

そんな権力を持ちながらも映画を愛するゲッベルズに媚を売り、
映画を作り続けようとするヤニングスを演じた風間杜夫のうまさがひときわ目を引いた。
主人公の小日向さんを軽く凌駕するうまさ。
本作品で小日向文世さんが2012年読売演劇大賞最優秀男優賞を受賞したらしいが、
それ以上に風間杜夫さんの怪演っぷりが際立っていた。
(ちなみに風間杜夫さんは2003年に受賞。)

そして私のお目当ての段田安則さんもよかったんですけどね!
(ちなみに段田安則さんは2006年読売演劇大賞の大賞および最優秀男優賞受賞。)

今回は、段田安則さんのよさが100%発揮しづらい役だったのがちょっと残念。
でもすんごくよかったです。
ほんとです。
ただとにかく風間杜夫が突き抜けてよかったからさ~。
段田安則のシリアスな演技も霞みがち。
あの風間杜夫の演技の突き抜けた感、皆に実際に見て感じてもらいたい。

作品もマニアックな内容でなく、構成や舞台美術も特別なことは何もしておらず、
スタンダードにシンプルに作ってあり、本当にすっくり胸の中に入ってくる。
そのままを受け取るだけで面白くて、それでもちょっと考えなくてはいけなくて。
この作品が初めての演劇鑑賞である人は幸せである。
きっと演劇が大好きになると思う。

また、最近の三谷幸喜のお気に入りであると思われる、
劇中のBGMをピアノ1台でがひたすら舞台上で奏でるところもよかった。
(ピアニストも作品中の人物として登場)

一流の脚本家&演出家の作品を、一流の役者が演じ、一流の音楽家が奏でる。
なんという贅沢。
なんという至福。

楽しい楽しい第1幕が終わり、長い長い第2幕が始まる。
ゲッベルズ邸に錚々たる顔ぶれが集められた理由が、ゲッベルズの口から発表される。

映画史上最高傑作である「風と共に去りぬ」(但し、ゲッベルズ主観による)を超える
超大作をドイツで作って成功させる!!!!

というものであった。

すばらしい映画は国威発揚にもなる、
国の思想にまみれたドイツ映画は観客を身構えさせてしまう。という考えから、
国威発揚のため、エンターティナーとして最高傑作の映画を作りたい。
と熱く語るゲッベルズ。

その考えに同意し、いい映画を作りたい映画人たち。
しかしその考えに異を唱え、
あの方の耳にも入れなければ、と脅かしの台詞を口にする親衛隊ヒムラー(段田安則)。

ただし・・・とヒムラーは続ける。
映画に出してくれたら黙っておこうかな・・・とポロリ。
映画なんて下品なもの見たことない!と言っていたヒムラーであったが、
ゲッベルズ邸で映画人らと交わるうちに、映画の魅力に感じ始めたのであった。

ズコー!!!
潔癖なヒムラーの違った一面に、ゲッベルズとゲーリングは爆笑する。

しかしその爆笑の会話の中で、実は3人が3人とも、それぞれを盗聴していた事実も判明する。
え・・・
とたじろぐ3人。
あ・・・あははははは。。。。。笑うしかない。

喜劇と恐怖が交互に訪れる。

そして急転直下の事件が起こるのだ。
直前まで、
俺の出番は最初だけですか~!?
そんなの困る~~~!?
などと駄々をこねまくり、ドカンドカンと私たち観客の大爆笑を独り占めしていたヤニングス。
その直後、ゲッベルズから別れを告げられた愛人エルザによる発砲事件も発生。
その独特の笑いとハラハラの非日常の空気が、気を緩めさせたのであろうか、
大女優ツァラ・レアンダーがうっかり口をすべらせてしまうのだ。
あの事実を。
あのナチス親衛隊ヒムラーの前で。

フリッツってほんとユダヤ人なのに何でもできるわね~。

と。。。。

今まで暗黙の了解であった事実が、
ここで初めて単語として、フリッツがユダヤ人である、と表現される。

自分の台詞にハッとするツァラ。
その言葉に敏感に反応するヒムラー。
凍り付くゲッベルズ邸内。

観客も笑顔のまま凍りつく。
だって、直前まで大爆笑していたのだから。
この笑顔、どこにしまえばいいの・・ひきつる笑顔。
舞台上の人物と同様、動揺を隠せない私たち観客。

ヒムラー以外、皆、顔を下に向ける。
そんな中、一人、何もかもを受け入れたかのような穏やかな顔をしたフリッツ。

いつ見つかるかとずっとビクビクしていた。
ツァラさん、罪悪感を感じないでくれ、むしろこれでよかったのだ、
と言う。

ヒムラーは問う。
ゲッベルズ、そして奥さん、フリッツがユダヤ人だと知っていたのか?
と。

言葉に詰まる夫妻を前に、フリッツは
私はずっと黙っていたので、旦那様たちは何も知らない
と答えたのであった。

そこでゲッベルズ!
立ち上がるんでしょ!!!!!
そうじゃない!と。
で、彼だけは勘弁してくれって言うんでしょ!?
さあ!言うのだ、言うんだ!!!!!
と心の中で念じる私。
そう、第1幕で人道主義のモノサシで測ったところによりますと、
映画をこよなく愛し、ユダヤ人を匿い、敵国のものであってもいいものはよしとする、
その世の中を平等の目で見定めてきたゲッベルスだもの、
そこはシンドラーもしくは杉原千畝よろしく、ゲッベルスがすっくと立ち上がるはず!!

するとゲッベルズの横に立っていたナチス空軍元帥ゲーリングが
なんとかしてやれないか、国外追放とかさ。
と妥協案を出す。

お前が出すんかい!
ゲッベルズ、黙ってないでなんとかいえー!
と思ってたら、ゲーリングの横でうんうんと頷くだけ。

ギリギリギリギリ・・・ニギギギ・・・←あもちゃん、絶賛歯ぎしり中。

・・・とか言って、最後にドーンとぶちかますんでしょーーー!!!
さあ、私、いつでも受け止める準備は出来てますぞ。

ヒムラーが言う。
それはもう無理だ。近いうちにヴァンゼーで会議を行い、最終決断が下されるのだ。

最終決断って?
と全くナチスとは関係ない映画人たちが問いかける。

そこで明かされたのは、ガス室によるユダヤ人大量排除作戦である。
つまりあのホロコーストである。

そんな話を普通に語るナチス軍人3人。
ゲーリングからは大量虐殺ではなく労働に使えばいいのに、と多少救われる発言もあったが、
あんなに映画を愛して、ロマンチックに駆け落ちなんてして、お茶目な一面もあった彼らが、
普通の顔をして、大量殺人の話をしているのだ。
映画や芸術への愛を熱く語った同じ口で。

ガビーーーーーン!!!!!

私のモノサシなんて役立たずだ。
三谷幸喜のワナにまんまと引っかかった。
現代に生きる私の、あまっちょろい人道主義視点を見事にぶっ壊してくれた三谷幸喜。

ゲッベルズの妻が泣きながら、
力になれなくて、ごめんなさいね
と目を背けながらフリッツに言葉をかける。

ああ、やっぱり一般人は(と言ってもナチス高官の妻だが)普通の感覚をお持ちよね。
うんうん。

そしてフリッツが座を下がってその妻が発した一言。

「とっても優しい人だったのに。。ユダヤ人のわりには・・。」

ガラガラガラガラ~。
お前もかー!!!!
私が描いた甘い甘い世界が、目の前で音を立てて崩れて行った。

こんな人道主義のあまっちょろい役立たずのモノサシなんて捨ててやるー!!!!
わーーーん><

(ただし、映画人たちはナチスの作る映画には出たくない、とゲッベルズの命に逆らい、
 映画作成から降りる。ここだけがちょっとした良心が描かれた部分であった。)

しかもナチスを描くにあたり、題材が題材だけにかなり苦労したと思うのだが、
ギリギリのうまさがここで発揮されている。

あんな狂ったことをしたナチスだけど、実はふっつーのかわいいオジサンだったんだよ
ではなく、
お茶目なふっつーのオジサンが、あんなホロコーストだなんて狂ったことをしていたんだよ
と表現していたのだ。

これは同じようで全く違う。
擁護ではなく非難。
その表現の仕方が絶妙なのだ。
それをそれとはっきり知らせることなく、すっと黙って差しこんでくる巧妙さ。
くっきりとした思想を見せられると、あまりの強引さに拒否反応が出てしまうが、
そうとわからせない上手さ。
けれども下地にははっきりとあのホロコーストに対する非難が織り込まれているのが分かる。
自然にそっと。

ここにゲッベルスに三谷幸喜が語らせた、

「あからさまな国の思想にまみれたものは観客を身構えさせてしまう。」

という映画論が、ここに通じているのである。

また、第1幕でヤニングスに語ったゲッベルスの言葉もまた印象的であった。

「皇帝ビスマルクの映画は数多くあるが、ありきたりな彼の人生を描いたものではなく、
 彼の1日だけに焦点を当て、その1日を切り取ったような映画を作ってみたい。」

まさにこの『国民の映画』という作品は、
ナチス高官ゲッベルスのある1日に焦点を当て、その1日を切り取った作品であったのだ。
なので暗転も一切なし。
舞台変換も一切ない。
ゲッベルス邸にいるゲッベルスの一日を追ったものであったから。

シンプルな作品でありながらも、
三谷幸喜がゲッベルスに語らせた映画論で作品を仕上げていた、という実は奥行きのある作品。
あ~、みんなに見てもらいたいなあ~。

ラストは第1幕を思わせるような人物紹介で幕を閉じる。
フリッツは●●収容所で・・・
ゲッベルスは・・・
ヒムラーは・・・
というように。
楽しい人物紹介であった第1幕とは真逆の、淋しく苦しいの最期の人物紹介であった。

今、三谷幸喜が熱い。
かなり今更感が・・・
けど、本当に、ちょっと目が離せない存在になっている。
しかも嬉しいことに、精力的に作品を作っており、次回作の上演が数ヶ月後である。
おほほ、あもちゃん、次回作チケットもすでにゲットだぜ!!!
わ~い、楽しみ。