先日の吉野では後醍醐天皇陵のお参り後も約2時間上にのぼり続けました。最初はどこをみても風情があって美しい~なんて感激していたのですが、だんだん急な坂道になり、友人との会話も減り黙々歩く状態。





それでも上ったのは、最初から目的にしていた神社が二つあったからです。

しかしまだまだ先は長いとみた友人は元々用事があったので、この途中で引き返してしまいほとんど人のいない山道を一人で歩いていきました。もう引き返そうか、と思うと下りてくる人にすれ違うので、あとどのくらいか?と聞くともうすぐだよ、と言われがんばって到着したのが、水分神社。
 

 

 

 



まさかこんな山奥にこんなにしっかりした社殿の神社があるとは思わず、驚いてしまいましたがほぼ無人状態。(神職の方がちょうど出て行った直後でした)ここは秀吉が祈願して秀頼を授かったと伝えられ、子授けで有名な神社だそうで、別称も子守宮。山奥のこの立派な社殿はその秀頼が寄進したものだそうです。



私はここでもう帰ろうかと思っていました。地図をみるとここまでの距離とその先の距離が見た目で全然違うのでまだまだ先が長いのがわかっていたからです。それにトイレにも行きたくなっていました。そこで行くか帰るか悩んで、途中にトイレマークがあるのを見てまた奥に行くことにしました。

しかし、誰もいないしまた霧が出てくるし、ホラー映画なら私はもうアウトです・・・。


10分ほど歩くと牛頭天王社跡の先にトイレ。山奥とは思えないきれいに管理された水洗トイレです。トイレに入ったらなんか元気が出てまだまだ登れる気になりました。

しかし、ひゃ~怖い~。なんか出てきそうで思わず写真撮りました。一人で山奥は怖いです。たまにすれ違う人みんなに挨拶しまくりでした。




そこですれ違った方にあと10分ぐらいで鳥居に着くからと励まされました。でもその鳥居を通った後また登るんだよ~、と。陽気なおばちゃんたちの集団は、寂しい山道で嬉しかった。また、バスで登ってきてこれから下りる道の状況を聞かれた家族連れとの会話も。こういう場所では見知らぬ他人が急接近してしまうのをあらためて実感。

 


そしてやっとたどり着いた鳥居。バスとすれ違わないのになぜポツリポツリ下りてくる人がいるのかと思ったら、この鳥居の前に一番頂上のバス停があり、別の道がバス道としてあったのでした。でも今は誰もいません。

 

 



靄がこんなに出ています。ここを登ること7分で到着。地主神様です。


右手にはさらに奥に行く道。この先には西行庵があります。でも私はここまで。8時過ぎに吉野駅に着いてから寄り道しながらも6時間以上登ってきたのです。歩くとは思っていましたがこんなに上るとは思っていなかった、吉野山、観光地になってるから・・・となめてました。


でもあきらめそうになりながらも、ここまで来て、この簡素な神社の雰囲気に圧倒されて、登ってきて良かった!と思いました。またちょっと一人では恐かった霧ですが、霞の中一人でお参りしたのは格別でした。



だ~れもいないのですが、社殿からみて右手の小さい家ではおじさんが一人でテレビをつけていました。御朱印をいただけるか聞いてみたら達筆!




そのおじさんに義経の隠塔に行ったか聞かれ、行ってないと答えたら1分で行けるから行ってごらんと薦められました。建物の右手、神社に向かって左手に下に降りる道があるのです。霧でみえないけど大丈夫かな?と見えない道を降りて行くと・・・



今回霞に演出されまくりですが、おじさんの言う通り下りてみて良かった~。ちなみに1分ではなく2分ぐらいかも。

 


 

 



しかしどうみても2畳か3畳ぐらいの広さにしか見えません。こんな狭いところに隠れていたのか?と思うと、義経も自業自得とはいえ、哀れだなあと思ったのでした。ここは最初は役業者の修行場だったようですが、修行としてここにいるのと、隠れてここにいるのでは全然違います。

今は急な坂道とはいえ舗装された道をあがってここまで来られますが、義経の頃約1000年前のこの吉野山が今よりもつと登るのに厳しい山だったのはまちがいありませんし、だからこそ修行の場所だったわけです。ここは、義経が隠れていた吉水院(神社)よりさらに1時間以上登って到着するのです。静御前は吉野で捕まったといいます。義経がここに隠れていたのがその前か後かはわかりませんが、この後東北まで落ちていく義経です。

頼朝を怒らせてしまった義経。よく言われる朝廷に冠位をもらったのが怒りをかったとかなんだとかありますけれども、日本の歴史をみなおしてみると一番の原因は、義経が幼い安徳天皇を二位尼と入水させてしまい、その時に三種の神器も海に落とされたことでしょう。頼朝は安徳天皇と三種の神器のの保護を厳命しています。ところが義経はその約束を守れなかったばかりか、宝剣については宇佐八幡宮に祈っただけで真剣に探さなかったとされています。愚かとしかいいようがなく、これが頼朝の怒りをかったのは明白です。私はなぜこんなに不仲になったのだろう?仲直りできなかったのだろう?とずっと思っていたのが歴史を再勉強してやっと理解できるようになったのでした。

歴史教育ではあまり大きく扱われていませんが、このことは日本の歴史を揺るがす大事件の一つでした。幼い天皇と三種の神器が同時になくなったのですから。鏡や剣は、それぞれ伊勢や熱田に本物があるわけすが、例えレプリカとはいえ本物として扱われてきています。そして勾玉はそれしかありません。鏡と勾玉は密封した箱に入っていたがために、浮かび上がってきて回収されましたが宝剣はとうとうみつかりませんでした。そして失われた命は戻りません。実は国史上最大の汚点を残した人物が源義経です。これに比べたら国賊と言われている足利尊氏だってまだかわいいものです。(足利市出身としては気になる尊氏)

義経は、この山奥に来てもそこに思い至ったのかどうか?私は理解できなかったのではないかと思います。理解できなかったからこそ、そういう戦い方をして、みすみす二位尼を安徳天皇と入水させるようしむけたし、そういう人は後からでも理解できないのではないかと。また理解できなかったからこそ、東北まで逃げていったのだと思うのです。そんなことをこの小さい塔の横で考えたのでした。


義経も歩いた道を戻ります。

 



義経と同時代の西行はこの奥の庵に引きこもりました。


さっきよりまた霧が濃くなっています。

 



さっきとほぼ同じところで写真を撮ったのですが、全く向こうが見えなくなっています。


この後、鳥居の前のバス停でマイクロバスを待ち、20分程で中千本口にまで下りてしまったのでした。やはりバスで登って歩いて降りる方が楽ですが、自力で登ってバスで降りるのも、きつい分気持ちいいかもしれません。