先日、太宰治の『富嶽百景』を読み返していたら、「西行」の文字を見つけ、小さな発見をしたように感じました。富嶽百景は、太宰が、昭和13年初秋に執筆のために滞在していた山梨県・御坂峠での出来事を書いた、短い随筆のような文章です。
太宰の滞在先に、彼の友人が遊びに来ていたとき、峠を登ってくるお坊さんのような小男がいて、太宰が友人に、「富士見西行、といつたところだね。かたちが、できてる。」
願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ
余りにありふれた引用で、こっ恥ずかしいが、桜の時季ということで、お許し願います。俗名、佐藤義清(のりきよ)、出家後、西行とも名乗った男の、辞世の句と言われている歌です。桜の時季が来る度に、この歌を思い出します。私は、花を愛でるような余裕などなく生きてきたので、花のもとにて春死なむと詠んだ西行が、羨ましい。
太宰は、富嶽百景の中で、「富士には、月見草がよく似合ふ」と、書いた。川口村の郵便局からの帰りのバスの中、車窓から富士山が見えるようになり、他の乗客は、富士山に見入っていた。が、太宰と、彼の隣席に座る老婆は、富士山に一瞥(いちべつ)もせず、その反対側を眺めていた。その老婆が「おや、月見草。」と言って、路傍に咲く月見草を指差した。
けなげに咲く月見草が、富士山と立派に相(あい)対峙している。太宰には、そう見えた。太宰は、自身と月見草を、重ね合わせたのだろうか。願わくは、富士と相対峙する月見草でありたい。そう、私は思っています。
神奈川県横須賀市にて
佐藤 政則