淡谷のり子さんの、"最後の"リサイタル | 佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

佐藤 政則「不易流行 -日本再生に向けて-」

変わらぬ理念の実現を目指し、しくみを修正する。
実態に合わなくなった諸制度を見直し、日本国を良くすることを目指す、政治ブログです。

 もう、かなり過ぎてしまいましたが、3月2日は、コラムニスト、青木雨彦さんの、命日でした。青木さんが、青森県出身の歌手、淡谷のり子さんに、インタビューをしたときの話を、青木さんの文章からの引用で申し訳ないが、ご紹介させていただきたい。

 淡谷さんは、"最後のリサイタル"と銘打ったリサイタルを、何度もされていた。青木さんが、淡谷さんにインタビューをしたとき、そのことに触れた。「毎度毎度、"最後のリサイタル"と銘打つのは、おかしくないですか」と、問いかけた。そうすると、淡谷さんは、静かに、その理由を語ってくれました。

 昭和20年、風雲急を告げるころ、淡谷さんは、慰問のために九州各地の基地を回り、鹿児島県の鹿屋にある基地にも、訪れたそうです。「別れのブルース」は、政府によって、歌うことを禁じられていたけど、慰問先の責任者が、「聞かなかったふりをするから」と言ってくれて、淡谷さんは、別れのブルースを歌った。

 淡谷さんが歌っている最中に、あろうことか、席を立って出て行く若者が、数名いた。何曲か、一通り歌い終えた後、淡谷さんは、その場の責任者に、「歌っている最中に、席を外すのは、失礼ではありませんか」と、不満を漏らした。そうすると、「彼らは、特攻隊の若者で、先ほど出撃しました。出発間際まで、淡谷さんの歌声を聴いていたくて、聴いていたんです」とのこと。

 だから、淡谷さんにとって、歌うことは、「いつもこれが最後なの」だそうだ。自身の浅薄さに気付いた淡谷さん。そして、青木さん。
若い頃、青木さんのこの文章を、初めて読んだとき、不覚にも、私は泣いてしまった。


神奈川県鎌倉市にて
佐藤 政則