日本人は、もともと、ホンネとタテマエ、内と外の顔を使い分ける傾向が強いですよね。
ホンネをオブラートで包んで、予定調和を乱さないようにするといったような。
それは、他者を気遣うマナーとしての部分と、
目立って村八分にされない為の防御の意味があって、
農耕民族として、平和にやっていく上で培われてきたことなのでしょう。
でも、ホンネとタテマエが、どんどん解離してしまうと、
よほど器用な人で無い限り、どんどん居心地の悪さを感じるようになって、
だんだんと息苦しくなってしまいます
また、タテマエ=いいこと、ホンネ=隠さないといけないことという思い込みがあると、
実際にはタテマエのようではない自分自身に罪悪感を感じてしまうこともあるでしょう。
ナンセンスですね。
そして、タテマエでだけで繋がった同士というのは、
お互いにとってそれほど意味をなさなかったりすることが多いもの。
なぜなら、外側にある共通概念ぽい、着ぐるみを着た付き合いなのですから。
流行りの着ぐるみだと、人は集まりやすいけれども、濃い繋がりにはなりにくい。
出会うなら、その人が感じる、発する、ホンネの部分にハッとしたり、
心の琴線に触れられたりすることから繋がる出会いの方が、
断然、面白いでしょう。
だから、SNSなんかでも、着ぐるみ的発言に終始するよりも、
ホンネをみせた方が、繋がりたい人と繋がれるんですね。
もうひとつ問題は、タテマエや、
こうするのが素敵、といった外から与えられる価値観を追いかけるうちに、
自分のホンネというものが、よく分からなくなってしまうこと。
いつも着ぐるみを着ていて、ほんとの自分の姿を鏡に映してないと、
自分がほんとは、どんな顔やスタイルをしていたかがぼんやりして、
思い出せなくなるようなもの。
着脱ファスナーがどこにあったかさえ、忘れてしまうようなもの。
そして、着ぐるみを脱いだホンネの自分は醜いと思いこんでいるのなら、
ほんとの自分を受け入れ愛せていないということだし、
自分はいいけど人には開示出来ないよというなら、
「醜い」と人から批判されることを恐れているということ。
でもね、たとえ、醜いと感じる人がいたっていいと思うのです。
感じ方は人それぞれだし、全員に好かれる必要もないですから。
もし、何かつっかかってくる人がいるとしたら、
それは、無関心ではいられない何かが、引っかかって気になっているということでしょう。
認めたくない憧れだったり、見たくない自分や知人の片鱗であったり。。。
そういう人が、自分の人生に何か責任を取ってくれるわけではないので、
気にして、愛すべきホンネの自分を縮こませているとしたら、バカらしいことですね。
着ぐるみを脱いだホンネの姿に惹かれる人、共感しあえる人と、
どれだけ触れ合えるかの方が、ずっと大事ですから。
社会生活を円滑にするために、
適切な着ぐるみを着せ替えて楽しむ分にはいいけれど、
ここぞという時には、堂々と脱げる人の方が勝ち。
内側のコアな部分と、人とのコミュニケーションの部分が、
自分で上手くハンドリング出来るようになると、
見える景色はずっと美しく、
繋がりたい人と、繋がりたい道へ繋がっていく、、、
そう思います。
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