母も家族も | つばめにのって ~肺腺癌との闘い~  番外編でチョコレート膿腫

つばめにのって ~肺腺癌との闘い~  番外編でチョコレート膿腫

2010年11月、母が肺癌宣告を受け、
ここから、これまでの恩を返す時間が始まりました。

そして2012年4月7日、母は永遠の眠りにつきました。

この経験がどこかで誰かのささえになれたらと思います。

番外編で、チョコレート膿腫のことも書いています。


パニックを起こしたあのあたりから

脳梗塞の影響もあって

母の混乱は続いた。


単独行動禁止といわれても

車椅子を自分で操作して別の病室の患者さんの

ところまでいったり、

「みんなとご飯も一緒に食べられないのね・・・」と

落ち込む母に

食事時間に食堂に案内しましょうかといってくれる看護師さんには

別れがつらいからいい・・・・と断ったのに、

次の日には食堂へ行くといったり、

最初から3個しかないみかんを

「6個あったのに盗られた!」と言ったり。


そして自宅療養を目指して

この週末に1泊2日の試験外泊を計画したのだが

実家の改装が重なり

日程が変わったこともあって

急な実施となったため

母が心の準備をしきれておらず

自宅に帰って4時間ほどでまたパニックを起こし

病院へ戻ってしまった。


まだこの病院にいたい母は

ホスピスの話も転院もまったく受け付けなかった。

ならば家に戻るしかないのだけれど

酸素も薬も準備万端、たった一泊ができないなんて

こんなことでは退院なんて無理だ。

でももう退院しないといけない、

あせる気持ちをかかえて

病院に戻った母のところにいった。


母は、病院へ戻ったことで落ち着きを取り戻し、

ベットに腰掛けていた。

特に息が乱れている様子もない。

これなら、もう一度試験外泊の続きができると思い、

「病院にもどったからといって何もしていないでしょ?

 大丈夫だから落ち着いたなら家に帰ろう」というと

こんなにしんどいのに、苦しいのに、といって

胸をさすり始めベットに倒れこんだ。

そんな母に苛立ち、私の口調はきつくなった。


私:「練習しないと、家に帰れないよ!」

母:「もういい、退院なんて無理や!一生病院におる!

   おればいいんやろ!どうせ!」

私:「そんなこといってない!

   先生も言ってたやんか、自宅にいる練習せなあかんやろ!」

父:「お母さんに正論をぶつけるな!」

私:「じゃあ、これからはどうするの!」

父:「それを言われるとつらい」

私:「もういろんなことを考えていかなあかん時期なんじゃないん!?」

母:「私なんか、いい母でもいい妻でもなかった、意味がないの」

父:「そんなことない、わしにはお前しかおらんから」

母:「もう死んでしまいたい」

母:「頼むからもう部屋から出て行って!」

私:「なんでそんなこと言うん!!

  どれだけみんなお母さんのことを心配してると思ってんの!!」

父:「とにかく、今お母さんに正論は言わんとって」

私:「私はお母さんと話したいの!お父さん、座って!!!」

母:「あんた、いつからそんな偉くなったん!?親に向かってえらそうに!!」

母:「だいたい私は外泊のことなんかきいてない!」

私:「言うたよ!何回も!」

母:「もうええ!!!」


こんな感じのやり取りをした・・・

父は怒りながら

母はつらさを訴えながら

私は情けなさで泣きながら・・・


この頃は

母は自分の置かれた状況を受け止めきれずに

いろんな人に当り散らしていた。

父は父で、全力で母の看護をしているのだが

とにかく母の希望を通すことに重点を置いていたため

母のわがままに完全に歩調をあわせて周りを振り回していた。

妹は家に母を迎え入れるために

最期を自宅で看取る覚悟をもって実家に戻ったのだが

空回りする父とかみ合わずストレスをかかえ、

私は私で母の介護の負担は妹に集中することが

目に見えていたため、

なんとか一点集中を避けるための手段を考えていて

父と母の気持ちに完全に沿うことができていなかった。


母を助けたい、サポートしたいというところは一緒なのに

全員の目的も気持ちもばらばらになっていて

一番家族の衝突が多かった時期だった。