前回ブログに書いた「呼吸機能検査」の時、

検査スタッフに、
「以前(の検査結果)よりも、いい結果ですよ!」
なんて言われてちょっといい気になったりもしたのだけれど…

たまたまその時、となりの席で検査を受けていた女性、
たぶん僕よりも10歳ぐらい若いんじゃないかと思うんだけれど、
彼女の検査モニターには、僕の倍は大きいんじゃなかろうか?という、見事な「フローボリューム曲線」か描きだされていた。

「こういうやつ」(フローボリューム曲線)ね。

僕は肺移植して元気になったとは言っても、推定年齢40歳前後の女性の肺活量にかなわないのですな。
肺年齢は相変わらず「95歳オーバー」だし…えーん

でも、
この大学病院で呼吸機能検査を受けているということは、彼女も「それなりの病気」のはず。

キレイなグラフをたやすく描いているように見えて、実はとても苦しい想いを(心身ともに)しているのかもしれない…
『呼吸機能検査が好きな患者がいて?』

そうだよね。

きっと彼女はこれから先、
僕が歩んできた道を、
同じように歩いていくに違いない。

「難病を患っていること」を受け入れることでとても苦しんだことでしょう(きっと今も「進行形」で悩んでいるのでしょう)
これから、もっと辛いことが沢山やってくるんだよ。
身体が辛いんだよ。
心はメチャクチャ辛いんだよ。
でもね、これからはきっと「いいクスリ」が開発されるだろうし、最悪「肺移植」という手段もあるのだから大丈夫。
きっと大丈夫だよ。

ってなことが、頭のなかを一気に駆け回って、応援のメッセージを一声かけたくなったのだけれど、
検査室で胡散臭い中年親父が唐突に話しかけて「新手のナンパ」か「変質者」かと思われてもいけないから、ギリギリでやめといた。

オッサンになると「はぢらひ」のハードルが下がってしまい、「お他人様」に簡単に声をかけそうになるから危険だ。


検査後、主治医の診察も終えて診察室を出たら、「次の診察患者の席」「件の彼女」が待ちくたびれた顔をして座っておられた。
『あなたの診察が遅すぎるのよ!』


ほ~らやっぱり。
主治医が一緒ということは、
彼女も「特発性間質性肺炎」とかの「めんどくさい系」の病気なんだ。

見た目は全く普通の人だし、フローボリューム曲線もすごくキレイだったのだから、まだ「初期」なのだろうけれど、
もしかするとこれから「確定診断」されるのかもしれないけれど、
内心はさぞかし「ショック」を受けていることでしょう。
突然、目の前真っ暗闇だよね。

『今の私には間質性肺炎を倒せん!』



「心配して生きるより、安心して生きるほうがいいじゃない」
僕が主治医から言われたことなのだけれど、
僕もそう思う。

こんな「不治の難病」になって、病気そのものでも、生活でも、心配なことは盛りだくさんなのだけれど、
だからって「心配ばかり」して生きていくのは辛いもんね。

昔と違って今は、
進行を遅らせる薬がある、
肺移植という手段もある、
きっとそのうち「いいクスリ」ができるから。
『人はいつか線維化さえ支配することができるさ…』


人間ってさ、
「自分で不安を作り出している」よね。

「普通の人」でも「不安なこと」や「心配なこと」が山盛りあって、

でもさ、いざ自分が「難病」になって「本当の不安」を味わってみると、
「元気だった頃は、どうでもいいことで悩んだりしていたんだなぁ」
と思う。

「命に関わる不安」を持つ者にとっては、隣近所の「元気そうな人々」が言ってる「不安」なんか「おならプー」なのだ。

そして隣近所の「元気そうな人々」もまた、実は人には言えない「とんでもない不安」を抱えて生きているのかもしれない。

結局、人間ってやつは、放っておけば勝手に「不安を作り出し」て、オロオロしながら生きていくモノなのだろう。

だからこそ、
日々の不安のなかにこそ「安心」を見つけ出し、作り出して、生きていきたいもの。

僕は難病になって、他人(ヒト)よりも短い人生になるだろうけれど、おかげで他人よりも濃密な人生をすごせていると思う。
タマシイに重さがあるのならば、きっと「ずっしり」と重たく育っていると思う。

だから、難病になったことすら、もしかしたら「ツイているのでは?」と思えるし、

なにより現代には「信頼に足る医学(医術)」がある。

『だいじょぶだからぁ!』
『すぐ外なんだからぁ!』



だからきっと「大丈夫」