氣比神宮の御朱印(敦賀市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

元々旅行が趣味とかいう人、特に温泉でゆっくりなんて考えが理解できなかったんですよ。
なんで高い金出して風呂入りに行くのかって。
でも今は高い金出して寺社巡りなら行くので、少しは気持ちがわかるようになった尼津彦です。
 
皆様おはようございます。
 
テンションは低いです。
 
約一時間かけて書いた尼津彦ワールド、例のごとく途中保存を怠って閉じてしまい、パーになりましたさ!
 
書き直しますよ。
 
 
福井旅行の最終日、気比の松原見に行こうと妻に持ちかけ、その途中で気比神宮の駐車場に入ってやりました。
 
越前國一宮の氣比神宮です。

 
拝殿と御朱印と息子~♪

氣比神宮の御祭神は伊奢沙別命と言います。
 
応神天皇が子供の頃、気比神宮の笥飯大神と名前を交換して譽田別尊を名乗ったと言われてますので、元々は応神天皇の名が伊奢沙別命であったと思われます。
 
が、こういうのは後継者の正統性であったり、箔をつけるためのものであると思います。
 
さて、氣比大神とはどなたかと言いますと、彦火火出見尊の贈り名です。
 
そして伊奢沙別命は「いさざわけ」「いささわけ」と読み、「いざこざ」「対立」を意味します。
 
彦火火出見尊といざこざと言えば、御存知、海幸山幸神話です。
 
彦火火出見は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫との間に生まれた三つ子のうちの末弟です。
 
この三つ子の誕生のお話も衝撃的なのですが長くなりすぎるため今日は語りません。
 
三つ子は一番上から火明(火照)、火闌降(火進)、火遠理(彦火火出見)です。
 
古事記、日本書紀、その他の文献でこれら三人の名前が違っていたり、ひっくり返っていたり、一人抜けていたりさまざまなので、本日の尼津彦ワールドではわかりやすくするために、火照、火進、火遠理と呼ばせていただきます。
 
まず長兄の火照ですが、天火明の説明の時にもうひとり火明がいるのでややこしいと書いたその人です。
 
火照(火明)の伯父である(瓊瓊杵の兄)天火明が世継ぎのないまま神上りしたため、天照大神は養子として国照を指名します。
 
この国照の父親がこの火照(火明)です。
 
国照は明日香の君になり饒速日と名乗るのですが、もしかしたら実父の火照もこの時、明日香に行き火明を襲名したのかもと最近思うようになりました。
 
次男の火進は普段釣りをしていたので海幸彦、三男の火遠理は狩りをしていたので山幸彦と呼ばれていました。
 
海幸山幸神話は有名なので省略しますが、結果的に山幸彦が筑紫の豊玉彦(住吉神の孫)の娘の豊玉姫を妻とすることで九州の勢力が身内になるわけです。
 
そして対立していた兄の火進を臣下にすることができたわけです。
 
本日一番重要なところです。
 
なぜ三兄弟の一番末っ子である火遠理が瓊瓊杵尊の跡を継いだのかの核心に迫ります。
 
本来、瓊瓊杵尊の後継ぎは長兄の火照であり、ずっと瓊瓊杵の宮でもある富士の宮て母である木花咲耶姫と共に過ごしていたのですが、明日香の天火明の世継ぎ問題でそちらの系統に一族がスライドしたと思われます。
 
ある意味、もうひとつ皇族の継承をしています。
 
しかし衰退しやがて神武東征によりこの王朝は無くなります。
 
次兄の火進は失脚しましたので後継者から外れています。
 
末弟の火遠理は元々の領地の北陸、妻の里の九州、そして火進の治めていた滋賀県周辺を手に入れ、一大勢力となるのです。
 
そして瓊瓊杵の後継者となり、不在となった富士を中心とした東海地域と四国をも統治下とします。
 
要するに代々の高皇産霊家の治める東北や天児屋根家の北関東、天火明家の近畿、この時どなたの領地かわかりませんが中国地方以外を手中にするわけです。
 
正式に後継者となったことで彦火火出見という称え名と考えられる名になったのではないでしょうか。
 
「彦」については前に「長官」と訳したことがあったと思います。
 
これは「彦」の前に国名がついた場合です。
 
もちろん一般的な名前の後につく場合もあります。
 
しかしながら彦火火見のように名前の前に「彦」がつくケースがあります。
 
この場合の「彦」は「日子」または「日高」という漢字をあてるべきかと思います。
 
「日子」、すなわち「日の子」、天照大神または天忍穂耳の子孫を表すのです。
 
瓊瓊杵にしても天火明にしても鵜草葺不合にしても贈り名には「彦」「日子」「日高」が冠されます。
 
彦火火出見と正后の豊玉姫は今の大津あたりで共に神上りします。
 
当時は死期が迫った時には自ら室や洞穴、宮などに籠り神上りを待ったのではないかと僕は思うのです。
 
このことから豊玉姫は夫の神上りに付き添い殉死されたのではないかと思います。
 
生前の遺言により彦火火出見は今の氣比神宮あたりに、豊玉姫は今の貴船神社あたりに埋葬されました。
 
長々失礼いたしましたが、一旦終わらせていただきます。
 
ありがとうございました。
 
あまりに長すぎたので、どこの神社の紹介か忘れたんちゃいます?
 
氣比神宮の御朱印です。

明日は彦火火出見の正后豊玉姫にスポットをあててみますね。