2011年12月05日

これからたくさんの人々が、感性が多少霊的になっていくだろうけれども、

私のような霊感ゼロ子さんから少しばかりの野暮な注意をしておきたい。


それは「自分が感じる世界を過信したり鵜呑みにしてはいけない」ということだ。



私は何度もブログで書いてきたが、霊的になるということは「真実が見える」ということではなく、

あくまで「自分の認識する範囲内での感知できる世界がひろがる」ということにすぎない。

また、「霊的になる」ということは、「霊的惑わしをも受けやすくなる」ということでもある。

つまり、霊的になってから見えた世界が、5割本当だとしても、5割になんらかの「嘘」がまじる可能性の方が高いのだ。




霊的な世界は自分の認識の世界であるからには、

自分の心や過去に嘘や誤魔化しを隠している人ほど、そのすり替えを自分で見抜けていない人ほど、

霊的な世界の「嘘」を見抜くのは難しいだろう。

自分自身の偽りを見抜く分だけ、周りの嘘も見抜ける。

霊的世界にこそ、「八正道」の「正見」は非常に大事であると思う。

それは、自分の思いこみや偏った考え方が、そのまま霊的な見え方に反映するからだ。

つまり正しいものが邪悪に見え、邪悪なものがなんでもないように見えてしまうことがある。

また、自分よりも力が強いものは、自分からは安易には見えないし、また逆に向こうから惑わしにあって違うものを見せられる可能性の方が強い。

霊的な世界とは、あくまで自分の認識の延長線であり、「真実」ではない。

それを知っておくことが大事ではないだろうか?





また、守護霊と同通することにより、逆に守護霊から人格干渉を強く受けすぎる人もいる。

過去の価値観や人格に過度に影響を受けすぎてしまうことは魂修行の観点からは理想的な状態とはいえないだろう。

では、それらのことを見抜き、自分以上の世界を霊的に感知できるようになるにはどうしたらいいのか。

私は「客観的な目・一般良識」「理性的知識」「正しい神仏の教え」が大事ではないかと思う。

正しい神仏の教えを学んでいたとしても、周りからみて明らかに「それ、ちょっとイタくない?」と思われているなら、それは本人の「信仰」に「我見」が多くまじっていることを意味する。

正しい信仰観に酔うことは簡単だが、自分をつねに客観視できているか、
周りの率直な意見に耳をかたむけ、素直に間違いをただせる自分であるか、
自らの過信を問うていく「反省」は、惑わしにさらされやすい霊的感性の者にはまさしく命綱ではないだろうか。

また、理性的な知識を得ることで、感性への偏りをなるべく抑え、バランスのとれた分析思考ができるようになる。

自分の感性や言動や判断を理性的に検証する作業はとても重要だと思う。



そして「正しい神仏の教え」これがもっとも重要ではないだろうか。

「正しい神仏の教え」は霊的世界の仕組み、正しい反省行、正しいこの世的な生活を説いている。

その教えは自分の感性の誤りをただしていくうえで最上の智慧となると思う。

そしてなにより、「正しい神仏」の存在とその方向性を「認識」することにより、

大きな霊的加護をいただくと同時に霊的な導きを得、

自分の人生において正しい神仏の御心にかなった愛の心や利他行へのアプローチを高めていくことがもっとも重要な部分ではないかと思う。


もしも正しい神仏の教えを学んでいたとしても、「愛」なく「利他行」なく、独善になっていたら、それはいつしか「信仰観」と自分の価値観(自己像)をまぜこんで「自分偉し」になっているのだと思う。

そのときには、また客観的視点からの点検をする。この繰り返しではないだろうか。



自分の感性を過信せず、よりよいバランスで人生を歩んでいきたいですね。











Mさん記事の上にあったから載せてみた(笑)


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