2015年
10月07日
09:39

 

 

 

 

 

前記事の続きです。

 

 

 

 

 

 

 

 

一見言い分が立っているようにも見える「不平不満」や「裁き」。

なぜこれが「依存心」「奪う愛」と霊的に同じ性質を持っているのか、

私なりに考えてみました。

すると、不平不満・裁き・依存心の共通点が見えてきました。
 
 


それは「自分の問題を棚上げできる」ということです。

相手が悪い、相手は正しいことをすべき(だから未熟であることが許せない)

という考え方は、

「自分の精神修行をストップさせている状態」であるのですね。

さらに言えば、

「相手を正さねばならない!相手は間違っている!」

は、

「相手に過度に求めている状態」であり、

それは「相手に是正を求める権利意識を持っている状態」であり、

これは「相手を自分の思い通りにしたい」という願望(渇望)であり、

この願望・渇望は、八苦の「求不得苦」(求めても得られない苦しみ・過ぎたる欲)にあたります。

自分以外の存在に対してこのように渇望・執着を向けている状態がすなわち依存であり、

こうしてみると、人間とはいかに周りに精神依存しているかがよくわかります。

この「情報に依存した状態」を自覚し切り離すことで、
 
「自己とは何か」を突き詰め、仏とつながる「真我」を目覚めさせることこそ仏道修行と呼ばれるものなのですが、

なかなか難しいよね!!!!(笑)


この「他者への依存心」をチェックするのは、実は非常に簡単です。
 


①どのような正当な理由であっても、自分以外の他者や組に対して批判したり正そうと忠告・警告したり、問題提起してきた経験

②自分から率先して動いて良き方向に改善してきた実績、
もしくは周りへの問題提起以上に自分自身への問題提起と改善を積み重ねてきた実績(反省行が習慣化している状態)
 

上記を比べて、②の方が少ない場合は、他人に依存している状態です。

こうすると、ほとんどの人が当てはまるんですけどね!!(笑)

もちろん私も当てはまるんですけどね!!(笑)

この周りへの精神依存という仕組みから自助努力・自灯明の方向へ精神的に脱皮することが、
 
最初の解脱(げだつ)なのかなーと思ったりもします。

仏教つくづく怖い・・・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

以前の記事のちょいとネタバレ。

 

 

 

 

 

 

 

 

オバケさんがうちのおさむんに関与できないのは

「穢らわしくて関わりたくもない」

(信仰と愛他と自戒に徹してる=オバケの側から見て気持ち悪い)

からだそうです。

波長が合わない状態って、ここまで突き抜けないといけないのよね。

私はおさむんにはまだまだ届きませんわ・・・・(涙)