私は霊的というにはあまりに経験不足であるので、
こちらでこのようなテーマで語るのも恐縮ではあるのですが、
これから霊性革命を迎えるにあたり、なんらかの形で参考にしていただけたらと思います。
私個人の意見ですけれども、
霊的なる人間にとって最大の敵とは、
やはり「慢心」ではないかと思います。
この「慢心」を知ることを、伝統宗教の人々は、
「神を名乗り始める」
ということで判定されていました。
つまり、
「我は○○の神なるぞ」
と名乗り始めた時点で、アウトだとされていたわけです。
修行者にとって必要なのは「神の心を我が心とする」ということではあるけれども、
それは、安直に「自分が神である」と名乗っていいことではないのですね。
では、日本の歴史で、生きながら明確な神であった方はいるのでしょうか?
います。
それは誰か?
天皇です。
天皇は古代の御名を「アマカミ」(天津神)と称されていました。
天皇は皇祖・天照大御神を先祖に持つから偉いのではなく、
「天照大御神から指名された、神の代理人としての統治の責任者」であるから偉いのですね。
つまり、天皇は天照大御神による地上統治の代行者という位置づけにおいて神そのものであるのです。
では、私達の崇拝する生き神であられるエル・カンターレ、大川隆法総裁先生はどうでしょうか?
大川隆法総裁が、本物の神であるかどうか、その結論は、私にはまだ出せません。
それは歴史が決める部分も大きいからです。
(イエス・キリストは生き神でありましたが悲惨な最期を遂げ、しかしその愛の教えの影響力が、結果的にイエス様を死後において神ならしめました。このように、歴史を見ないと最終的な結論は出ない場合は数多くあります)
しかし、大川隆法総裁が「生き神」としての働きをどれほど命を賭して現在只今もなさっておられるか、
それは、正しき目を持つ信者なら誰しもが知るところであります。
大川隆法総裁の働きは、あらゆるリスクをその身に受け、
また、あらゆるチャレンジをし続け、
新興宗教の教祖のする仕事量をすでに大きく超えています。
信者は大川隆法総裁しか知らないことも多いですが、
世間の教祖と大川総裁の「働き」を比べたときに、それは明らかとなります。
「教祖」という立場にあぐらをかいてるのであれば、大川総裁の仕事量は、絶対にできる仕事量ではありません。
では、生き神とはなんでしょうか?
イエス様や天皇陛下や大川隆法総裁を、生き神ならしめるモノとはなんでしょうか?
私は、その仕事にあると思います。
神に選ばれているから偉いのではなく、
「神として何を為すべきか?」という視点を、責任を背負って、仕事そのものを人生として生き続けたからこそ、
それらの方々は、生き神と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。
私達は仏神を目指すべき存在ですが、
神の視点、神の働きというものを、今一度知る時ではないかと思います。
この「神の視点」を得た時に、
「神を名乗る」ということが、どれだけ恐ろしいことかが、お分かりいただけるかと思います。
「神を名乗る」なら、相応の仕事が伴わねば、それは「神を詐称した」ということになるからです。
神を詐称する存在とはなんでしょうか?
それは、神になりたくて神に嫉妬する存在、すなわち邪霊です。
この邪霊によるそそのかしは、常に神を目指す修行者を狙っております。
「神を名乗り、尊敬や注目を集めたい、でも神としての責任は背負いたくない」
そんな愚かな願望を、邪霊は叶えてくれます。
その末路は、離れた目でみたときに、明らかとなります。
世間で、神を名乗り、霊を降ろす者は多けれども、
相応でなければ、必ずどこかに歪みが生じ、また「隠している罪」が露見します。
私達は、「慢心」や「慢心を誘うささやき」を常に戒め、
つねに「偉大なる神の仕事をお手伝いさせていただく存在」でありたいものですね。
私が「アマミキョ」を名乗ってるのは、琉球開闢の女神の存在を本土の皆さんに知っていただきたいという一念からであり、私自身の魂は女神とは何の関係もないただの木っ端です。
本当は奄美開闢の女神「アマミコ」を伝えたかったんですが、あまりに畏れ多くてできなかったの(笑)
ネットで「アマミキョ」を名乗ったのは10年前からですが、私の携帯のアドレスは
「tennokokoro-amamiko@docomo.ne.jp 」
です。これは高校卒業して携帯持ってすぐからのアドレスで、将来も変える気はありません。
これだけ奄美の神を崇拝してた私がHSに帰依したんですから、奄美の神のアプローチってマジこわいよね!(笑)
余談ですが、うちの師匠の気功師としての名前が「和乃天心」だと知って互いに驚いたことがあります。(笑)
うちの師匠、絶対奄美霊界に関わりがあると思うんですよね・・・・・・。