実は、私はここ数ヶ月、下書き状態にしたまま、公開をやめている文章がいくつかあります。
その内容は、ある隠している情報をバラす内容だったりします。
それを書くことで、ある種の方々の誤解が解けることを私自身は理解しています。
でも私はその文章を公開しませんでした。
いえ、正確には、公開ボタンを押す寸前に我慢して、それを止めました。
公開ボタンを押す手をとめたのは、私の大切な友人の皆様のアドバイスであったり、
私を支えてくださる存在からのインスピであったりしました。
その理由は、
「それを公開することで、誤解がとけると同時に、必ず傷つく人がいる」
からでした。
その情報が事実であっても、それによって立場を危うくする人がいるということに、
私は、そろそろ「愛」の観点から「許し」を学ばねばならないと、周りの方々から教えていただきました。
ただ、どうしてもというときには「伝家の宝刀」を抜く準備はできておりますが、
この「伝家の宝刀」を捨てられないのが、私の「怒り」であり、同時に「慢心」でもあるのだと思います。
もしも「伝家の宝刀」を抜くときには、無我の心で抜かなければならない、
己心の怒りや自己判断のみで、それを抜いてはならないと、強く戒めています。
私は、自分の文章にある「裁き」や「高慢さ」を、もっともっと自覚しないといけないと思います。
私自身は気づかなくても、私の文章やリアルな言動ににじみ出ている「怒りの強さ」や「慢心の強さ」を、
私はもっと自分自身のネガティブな本音と対面し、直視して、理解し、そして自己との対話のなかで自身のなかのネガティブを融解する必要があると感じます。
本当は、この世界とは、すべて自己の精神世界の写鏡の世界であり、
同時に、自分が書く文章も、そうであるならば、
私が書く文章が、裁きや高慢に満ちているのなら、
私の精神世界も裁きや高慢にみちているからです。
裁きや高慢な文章が、私の魂の向上に役立つかと問えば、
それは微塵も自分の魂の向上には役立たないことは明らかです。
自分の魂の向上につながらない「怒り」と「慢心」の傾向は変えるべきでしょう。
「伝家の宝刀」の存在すらも、本当は、私の捨てられない怒りそのものです。
なかなかに自分の傾向性を変えることは難しい。
ここに、私の「仏教の習得の未熟さ」が現れていると感じます。
何度も何度も同じ失敗を繰り返して、何度も何度も反省してその度に反省したことを忘れて、また思い出して、
それでも、少しずつ、前に進んでいきたいと思います。
自分以外の世界を裁くことや、世界に対して高慢な態度で何かを語るよりも、
幸福の創造のために、自分は世界に対して何ができるのか。
自分が世界に紡ぎ出す「言葉」は、本当に裁きや高慢であっていいのか。
もっともっと、明るい言霊や明るい考え方、新しいパイにつながる視点を、世界に向けて創り出してことに、私は挑戦していくべきではないか。
ここで、私自身に、自己宣言をまた創りたいと思います。
「私は自分自身の魂に、優しさの復権を果たします」
私にとって、優しさの復権とは、許しであり、過去のわだかまりを水に流すことであり、
また、過去を許せない自分の怒りや、
自分のことを棚にあげて他者を裁く高慢さを反省し、
「伝家の宝刀」も捨て、
この怒りや高慢さの奥にある、
「自己と世界への無知」を反省し、
正しく自分と世界を知ることで、自己と世界への認識に許しの視点を持つこと。
これが、私にとっての優しさの復権であると、現時点で私は思います。
この優しさの復権を、私自身のテーマとし、
世界は自己の精神世界の投影である事実をくり返し心に刻み、
自分にとっての最善の道とはなにか、探し続けたいと思います。
怒りが実は脊髄反射の一つであることを教えてくださったのは、
natsuさんでした。
正しい仏教的瞑想では「思考のクセ」や「性格」つまり「自我」も、実は六根の反射からくるものだと教えていただき、はじめて「仏教スゲー!」と思いました。(笑)
すみません、全然仏教の本質を知らない信者でした☆
(。・ ω<)ゞてへぺろ♡
natsuさん、いつも本当にありがとうございます!!!!
(;ω;)
この日記は、私自身くり返し読まないといけないと思います・・・・・