モンテスキューは偉いなあ・・・ | 宮城県大崎市の学習塾、進学塾「あるふあゼミナールのブログ」

モンテスキューは偉いなあ・・・

ウクライナの政変を伝え聞いていると改めて

モンテスキューは偉いなあ・・・とおもう。


法の精神と言う著作を通して政治の権力を

分立させる必要を説いた。

どんな立派な人でも一人で権力を持つと

権力の濫用になると主張し、政治の権力には

立法と行政、司法と三分野があり、これを

分立させる事を主張した。この考えは

現在では一応どんな制度の国においても

形式的には採用せざるを得ないものとなっている。

しかし、現実的には建て前と本音が分離をしている

事がしばしばである。


朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治体制も

事実とすれば信じ難いものである。

(国名が人民民主主義ではなく民主主義人民とした

ところにも起因するのであろうか・・

Democratic people's repabulic of Korea であるが

民主主義的な人民はキム主席一人ということだろうか)


モンテスキューは余程の皮肉屋かユーモアをもって

時の権力者の在り様を眺めていたのだろうか。


イギリスの清教徒革命のあとのクロウム・ウエルの

独裁から、フランスのルイ王朝の在り様などを透徹して

見ての主張だったのである。


現在では濫用は乱用でも良いとされているが、私は

個人的には反対である。乱用ではモンテスキューの

透徹した思考が生きないのではないかと思う。


彼は乱用ではなく、人間の本質をもっと深く思料しぬいて

濫用と表現したのではなかったか。


人はどうしても自分の背丈に合わせて目の前の事態を

あるいは他の人を理解しようとするものであり、しかも

それぞれに自分の思いを正しいと思い、自分の思いを

実現しようとして生きるのだということを前提としているのだ。


盲人、巨象をなぞるのことわざはこれを的確に現している。

本当の他人のことを理解できるということは不可能な事で

それぞれに自分の理解できる範囲で認識してしまうのだ。

自分は少しも間違った事をしているつもりはなくても、

正しいとは限らないとも言える。多くの人のそうした認識が

折り合いをつけて、この世は成り立っているのである。


そんな中に、自分は断じて正しいと思う人が出てくると

それはどんなに小さくとも一つの権力なのだということを

認識しなければならないのだが、しばしば指導力などと

言う便利な言葉で置き換えられて済ましてしまうことを

モンテスキューは、卓越したシニカルさで見据えていた

のではないか・・・と思うのである。

小さな組織やグループではそれでも済まされるが

これが大きな組織あるいは国家的な規模に発展すると

ウクライナやキム政権のようになってしまう。

同じ事だよ・・・とモンテスキューはつぶやいているだろう・・。